今日は「殺生石」「遊行柳」です。

 旅が進むにつれて、どんどん面白くなります。

玉藻の前伝説

 日光を後にした芭蕉は、北へ北へと進みます。

 途中、お弟子さんのところへ世話になり、「犬追物の跡」「玉藻の前」の古墳をお参りしています。

 この「玉藻の前」のお話をまずしなくてはなりません。

最初にお断りすると「玉藻の前」の物語は伝説です。史実ではありません。

玉藻の前の物語

 鳥羽上皇の寵姫に玉藻の前という姫がいた。

 この姫の正体は、九尾の狐の化身であった。

 ある日、陰陽師によりその正体を暴かれた玉藻の前(九尾の狐)は、東北に向かって逃げる。

 鳥羽上皇は討伐隊を派遣し、那須野(現在の栃木県)で九尾の狐を追い詰め、ついに息の根を止める。

 息絶えた九尾の狐はその場で石となり、毒気を放ち近づく者の命を奪った。

 以来、その石は「殺生石」と名付けられ、玄翁和尚がその石をたたき割るまで、毒気を放ち続けた。

 九尾の狐伝説は、古くは水滸伝の妲己(だっき)まで遡ることができます。玉藻の前の伝説はその類型と言っていいかもしれません。

 芭蕉は、殺生石に立ち寄る前、那須野に逗留していたときに「玉藻の前の古墳をとふ」と記述しています。この古墳は栃木県那須町にある篠原玉藻稲荷神社の狐塚のことと思われます。

 ところで、山形入りするまでの芭蕉の目的は「歌枕」です。

『奥の細道』の旅を大雑把に四部構成に分ける考え方があります。(長谷川櫂)

 第一部 禊 白河まで(福島県)

 第二部 歌枕 尿前まで(宮城県と山形県の県境)

 第三部 宇宙 市振まで(新潟県)

 第四部 人間 大垣まで(三重県)

 この殺生石は白河の関の直前にあります。また、遊行柳は超有名な歌枕で絶対に外せないポイントなので、ここの段は歌枕の段と考えていきましょう。

 では本編いってみましょう。

本文「殺生石」「遊行柳」

①殺生石

是より殺生石(せっしょうせき)に行く。館代(かんだい)より馬にて送らる。此の口付(くちづき)のをのこ

「短冊(たんじゃく)得(え)させよ」

と乞ふ。やさしき事を望み侍るものかなと、

 野を横に馬牽(ひき)むけよほととぎす

殺生石は温泉(いでゆ)の出づる山陰(やまかげ)にあり。石の毒気いまだ滅びず、蜂蝶のたぐひ真砂(まさご)の色の見えぬほど重なり死す。

②遊行柳

又、清水ながるるの柳は、芦野(あしの)の里に有りて田の畔(くろ)にのこる。此の所の郡守戸部某(ぐんしゅこほうなにがし)の、

「此の柳みせばや」

など折々に給(のたま)ひ聞え給ふを、いづくの程にやと思ひしを、今日此の柳の蔭にこそ立ちより侍りつれ。

 田一枚植て立去る柳かな(たいちまいうえてたちさるやなぎかな)

九尾の化身をやっつけるぞ

 犬追物という史跡があります。これも那須にあるのですが、どんな場所かというと、九尾の化身をやっつけるために犬を狐に見立てて弓の訓練をした場所のことです。

 そのあたりの芭蕉の足跡はこちらの記事に写真がたくさんあって分かりやすいと思います。

 まあ、史跡と言っても「九尾の狐伝説」にもとづく史跡ですから、九尾の狐をやっつけるための訓練が現実に行われたとは思えません。

 このリンク先の犬追物跡の看板の解説を読んでも分かるように、この史跡自体「『謡曲 殺生石』によると」とあり、史実による解説ではありません。

 この近くの玉藻稲荷神社も、九尾の狐を祭っており、町(村?)を挙げてこの伝説に乗っかっています。

 岡山が桃太郎を推すような感じですね。

 さて、「犬追物の跡」の話をなぜしたかと言いますと、源実朝の和歌をご紹介したかったからです。玉藻稲荷神社の境内に歌碑があります。

 武士の 矢並つくろふ 籠手の上に 霰たばしる 那須の篠原

 もののふの やなみつくろう こてのうえに あられたばしる なすのしのはら

 九尾の狐の討伐隊が組織された。しかし、九尾の狐の抵抗は強くなかなか倒すことができない。そこで犬追物の跡で訓練を重ね、やがて「鏡が池」でついに九尾の狐を倒す。

ちなみに、鏡が池玉藻稲荷神社の中にあるそうです。

実朝は、こうした伝説を元に、鎌倉にありながら「もののふの」の歌を詠んでいます。

 ある日、芭蕉がお弟子さんに「歌人ですばらしいのは誰ですか」と聞かれて「そりゃあおめえ西行と鎌倉右大臣だべ」と答えています(小林秀雄)。鎌倉右大臣とは実朝のことです。

殺生石 適当現代語訳

 これから殺生石に行く。館代が馬で送り出してくれた。この馬の口付をする男が

「短冊に一句くださいな」

とたのんできた。趣(おもむき)のあることを言ってくるものだと

 野を横に馬牽(ひき)むけよほととぎす

 殺生石は温泉の出る山の陰にある。石の毒気はまだ消えておらず。蜂や蝶のたぐいが地面の砂が見えないぐらい重なり死んでいた。

城代家老がお弟子さん

「館代」 「かんだい」と読みます。人です。お殿様の家来で留守役をしています。「城代」ならば「じょうだい」ですね。「館」は「おやかた」で、城ほど大きくはないけど、お殿様のおうちです。今風に言うと「副市長」や「副知事」のようなものでしょうか。そんな偉い人が、馬を付けて送り出してくれています。芭蕉先生って何者なんでしょうね。

 殺生石に向かって出立する前、芭蕉はこの「館代さん」の屋敷で2週間も世話になっています。この「館代さん」ですが、本名は浄法寺高勝。じょうぼうじたかかつさんです。黒羽藩の城代家老で、俳号を桃雪と言います。

 芭蕉は「館代」と言っていますが、本当は「城代」だったんですね。めちゃめちゃお偉いさんです。

 しかし、ぶっちゃけて「城代」と書いてしまったら、

「なんだ、芭蕉は「桑門」とか「乞食順礼」とか言ってるけど、ちゃっかり金持ちのパトロンいるじゃねえか」

と思う人も出て、作品の雰囲気も台無しになってしまいます。だから「館代」として、しょぼい感じを出したんですね。と、私は思ってます。

「芭蕉先生、ずるい」

と思いますか?

 実は私もちょっとずるいと思っています。

口付きのおのこをわざわざ書いたわけ

口付きのおのこ 馬の先導役の男ですね。この男に「短冊に一句書いてくださいな」の頼まれています。

 作品冒頭分の「馬の口とらへて老ひをむかふる者」を想起した人も多いのではないでしょうか。

 その男に句を求めさせることによって、「口付きのおのこ」でも風流やもののあわれを解する心があることを表現しています。

 館代という偉い人に2週間世話になって、土地の史跡や名所を案内してもらった。館代ともなれば、教養があって、風流を解する心があって当然です。

 しかし、芭蕉は弟子である館代の風流には一切触れず、「口付きのおのこ」に向かって「やさしき事をのぞみ侍るものかな」と言っているのです。

 風流を解するのに、貧富や身分は関係ないことをたったの4行で表現しています。

 当然ですが、作り話です。

「口付きのおのこ」で私たちは、下っ端の家来を想像しがちですが、実際にはもっとしっかりした人が随行していることが分かっています。

 この芭蕉の旅に随行している曽良がつけている『曽良旅日記』があります。『奥の細道』の旅を知る上で大変重要な書物なのですが、この『旅日記』と芭蕉の記述には食い違う点が数多くあります。

 それは芭蕉先生が

 ボケ老人だったわけではありません。

『奥の細道』を虚実織り交ざった創作物として完成させる意図があったからです。

 ちなみに、完全におまけ扱いのようになってしまいましたが、九尾の狐が絶命したあと姿を変えたとされる殺生石は、グーグルマップで行くことができますし、こちらで見ることもできます。

西行の心

 そろそろ、芭蕉先生がちょっと半端ない人であることが明らかになってきます。

 その前にいつもの適当現代語訳いってみましょう。

適当現代語訳

 また、「清水ながるる」と西行が詠んだ柳の木は、芦野の里にあって、田のあぜに残っている。

 この芦野の里の領主であるAさんが

「この柳をお見せしたいものです」

と、折にふれおっしゃっていたのを、いつの日になることやらと思っていたけれども、今日この柳の陰に立ち寄ることになるとはなあ。

 田一枚植て立去る柳かな

「清水ながるる」の歌

 まず西行のこの歌から押さえましょう

 道の辺に清水流るる柳陰しばしとてこそ立ちどまりつれ

 いい歌ですね。この歌の肝は「しばしとてこそ立ちどまりつれ」にあります。

「(柳の陰に)少しの間と思って立ち止まったんだがなあ」

 という意味になります。「少しの間と思ったんだけど、思わず長居をしてしまったよ」がこの歌の心です。ここ、大切なのでちょっと覚えておいてください。

 西行は、諸国を巡る旅を続けながら、多くの名歌を生み出したいわば

 和歌のレジェンド

 です。

 そんな西行には、多くの逸話が後から後から付け足され、ついには『遊行柳』なんていう謡曲まで誕生する始末です。

 謡曲『遊行柳』は、まさに西行とこの柳の木のお話なんですが、詳しい内容は長くなるので省略いたします。

 ところで、実際に西行がこの芦野の里にある柳の木を前にして歌を詠んだかどうかは明らかになっておりません。行ってない可能性の方が大きいのですが、だからといってこの歌の価値が下がるものではありません。

西行の心

「此の所の郡守戸部某(くんしゅこほうなにがし)」=蘆野資俊(あしのすけとし)。蘆野氏19代当主で、俳号は桃酔

 はい出ました、芭蕉先生のお弟子さん。なんか、いろんな土地の実力者がどんどん出てきました。城代家老の次は里の領主様です。芭蕉先生、何者ですか?

 こうした人脈の広さから、「松尾芭蕉隠密説」を言う人もいます。確かに、当時の仙台藩は警戒すべき対象だったので、その敵情視察に芭蕉をやったというのは「まあ、なくはないかな?」と思わせるところもあります。興味のある方はぐぐってみてください。わんさか出てきます。

 この芦野の領主さんには、手紙?のやり取りで「遊行柳を一度でいいから見せてあげたい」と何度も言われていたんでしょうね。

「今日此の柳の蔭にこそ立ちより侍りつれ。」

と感慨深げに語っています。「こそ」は大事です。昔の人は、強調したいときに

 こそ

を使います。私がアンダーラインや、太字や、フォントサイズで強調するように、昔の人は

  こそ

なんです。

田一枚植(うえ)て立去(たちさ)る柳かな

 あの柳の木にやってきた芭蕉は、この句で

「立ち去るのに農夫の田植え一枚分かかったよ」

と詠んでいます。

 西行が「思わず長居をしてしまった」柳の木陰です。芭蕉は、西行の歌の心をしっかりと押さえた上で、「田一枚」の三文字で時間の流れを表現しています。

 西行へのあこがれ、やっと訪れた遊行柳。この句の味わいはどこまでも深く心にしみるものがあります。

俳号について

 黒羽藩の城代家老さんの俳号は桃雪、芦野の里の領主さんは桃酔です。共通点は「桃」の字です。お稽古ごとで弟子入りすると、お師匠様の名を一文字頂戴するのはどこの世界にも見られます。

 芭蕉は、若い頃は桃青と名乗っていました。芭蕉と名乗りはじめたのは38歳ごろと思われます。

 この後でも、号に「桃」が付くお弟子さんが何人か出てきます。

 次回は、やってまいりました「白河の関」です。お楽しみに。

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