自粛の憂さ晴らしに思いつきで始めた奥の細道談義4
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白河の関にやってきた!

 いよいよやってまいりました。白河の関です。

 これより後、みちのくの歌枕をめぐる旅が本格化するわけで、前回お話した「殺生石」「遊行柳」は料理で言えば前菜、アペリティフ、居酒屋の突き出しみたいなものです。

 それで腹一杯にするわけにはいきません。

 本文を見る前にまずは白河の関について少々の蘊蓄をお許しください。

 まず、この白河の関自体が東北の代表的歌枕であります。

 したがって、白河の関を詠んだ歌は山のようにあるわけですが、芭蕉先生の筆に関わってくる歌を5首ほど。細かい意味はわからなくても、なんとなく雰囲気だけつかんでいただければ大丈夫です。

都をば霞とともに立ちしかど秋風ぞ吹く白河の関(能因法師)

都にはまだ青葉にて見しかども紅葉散り敷く白河の関(源頼政)

便り有らばいかで都へ告げやらむけふ白河の関は越えぬと(平兼盛)

見てすぐる人しなければ卯の花の咲ける垣根や白河の関(藤原季通すえみち)

消(け)ぬが上に降りしけみ雪白河の関のこなたに春もこそたて(藤原家隆)

 能因法師や頼政の言う「都」は京都です。

 だから「春霞」のころに京都を出て、白河の関に着くころには秋風が吹いるというのですから、その行程はおよそ半年と考えていいでしょう。源頼政の一首は能因法師と歌の境地は似ていますが、「青」「赤」「白」という色彩が美しいですね。

 そんな長旅の末にたどり着く白河の関ですから、到着した折には、「便りあらば」と兼盛が詠む気持ちも分かるわけです。

袋草子のこと

 藤原清輔の『袋草子』の中に次のようなくだりがあります。

竹田大夫国行(たけだたいふくにゆき)と云ふ者、陸奥に下向(げこう)の時、白川の関過ぐる日は殊に裝束(さうぞ)きて、みづびんかくと云々。人問ひて云はく、「何等の故ぞや」。答へて云はく、「古曾部入道(こそべにゅうどう)の『秋風ぞ吹く白川の関』とよまれたる所をば、いかで褻(け)なりにては過ぎん」と云々。殊勝の事なり。

適当現代語訳は以下の通り

竹田大夫国之(藤原国之)という人が、陸奥に下った時に、白河の関を過ぎる日は、特にきちんと衣装を改めて、髪もさっぱりとセットしていたということを、人が聞いた

「どうしてですか?」。

すると聞かれた方は

「そりゃあおめえ、古曽部の入道さん(能因法師)が『秋風ぞ吹く白河の関』とお詠みになった場所を、普段着で通過するわけにはいかねえからよ」

とか答えていて、素晴らしいことじゃ。(現代語訳ここまで)

 この一節のおかげかどうか分かりませんが、白河の関を通過するときは、正装でパリッとした格好で行くことは、教養人の常識となったのであります。

 さあ、仕込みは完了しました。以上の情報を踏まえて本文いってみましょう。

白河の関(本文)

心もとなき日数(ひかず)かさなるままに、白川の関(せき)にかかりて旅心(たびごころ)定(さだま)りぬ。「いかで都へ」とたより求めしもことわりなり。中にも此の関は三関(さんせき)の一(いつ)にして、風騒(ふうそう)の人、心をとどむ。秋風を耳にのこし、紅葉を俤(おもかげ)にして、青葉の梢(こずえ)、猶(なお)あはれなり。卯の花の白妙(しろたえ)に、茨の花の咲きそひて、雪にもこゆる心地ぞする。古人、冠を正し、衣裳を改めし事など、清輔の筆にとどめ置かれしとぞ。

 卯の花をかざしに関の晴着かな 曾良

なぜ今さら「旅心定まりぬ」なのか

1文ずつ見ていきましょう

心もとなき日数(ひかず)かさなるままに、白川の関(せき)にかかりて旅心(たびごころ)定(さだま)りぬ。

 白河の関にやってきてやっと旅の心が定まったって、

今までは何だったの?

と言いたくなる気持ちをぐっとこらえて考えていきましょう。なぜでしょうか。読み進めると疑問が解消してゆきます。

「いかで都へ」とたより求めしもことわりなり。

 平兼盛の歌ですね。「今日白河の関を越えるぞ、と都へ手紙を出したいのだが、その方法も分からない(もう便りは出せないかもしれない)」という兼盛の心を、「ことわりなり」つまり、

「めっちゃわかる」

と言っています。

 この白河の関は、5世紀ごろから、蝦夷に対抗するための関所でしたが、平安中期にはほとんど軍事拠点としての意味はなくなっています。

 しかし、都から遠く離れて、白河の関を越える人にとっては、「これを越えたら、朝廷の統治が及ばない未知の世界かも」という一定のドキドキ感はあったと想像します。ですから、ここを通る人は、古人が詠んだ歌や振る舞いに一定の敬意を表し、

「さあ、白河の関を越えるぞ!」

と気持ちを入れ替えてきたのでしょう。

 それが数々の和歌を生み、その数々の和歌がさらに白河の関の歌枕としての地位を不動のものに築き上げてきたのです。奥州への玄関口として、未知の世界へのロマンの象徴として白河の関は東北の歌枕の代表的存在として君臨します。

 したがって、芭蕉も

中にも此の関は三関(さんせき)の一(いつ)にして、風騒(ふうそう)の人、心をとどむ。

 としています。

「風騒の人」とは、詩文を作り、味わい楽しむ人々のことです。そういう風流人たちが、常に心にとどめる存在である白河の関。

 そこにたどり着いてして「旅の心は定まった」というのです。

 江戸時代の長旅というのは、命がけです。行ったことのない、初めての土地から土地へ、どんどん歩みを進めることは、精神的にも肉体的にも消耗します。

 しかし「定まった心」は、単に旅の迷いや不安が吹っ切れたというのみならず、自分が「狂」を求めて続けている旅に、新たなエネルギーが注がれた心境を表現しているのではないでしょうか。

芭蕉先生本気を出す

 後半のパートに入っていきましょう。

 最初に紹介した5つの和歌(本当はもっと多い)の境地と、藤原清輔『袋草子』の中にある、藤原国之の故事が、次の短い一節の中にすべて盛り込まれております。

 その前に、ちょっとおさらいしましょう。太字の部分が本文に反映されています。

都をば霞とともに立ちしかど秋風ぞ吹く白河の関(能因法師)

都にはまだ青葉にて見しかども紅葉散り敷く白河の関(源頼政)

見てすぐる人しなければ卯の花の咲ける垣根や白河の関(藤原季通すえみち)

消ぬが上に降りしけみ雪白河の関のこなたに春もこそたて(藤原家隆)

こちらが本文になります。

秋風を耳にのこし、紅葉を俤(おもかげ)にして、青葉の梢(こずえ)、猶(なお)あはれなり。卯の花の白妙(しろたえ)に、茨の花の咲きそひて、雪にもこゆる心地ぞする。

古人、冠を正し、衣裳を改めし事など、清輔の筆にとどめ置かれしとぞ。

芭蕉先生は、有名な歌枕にやってきてテンションが上がると、すぐこのようにして、地の文で本気モード炸裂させます。地の文を見れば芭蕉先生がどれだけ喜んでいるかが大体分かるのです。

この白河の関に到着したのは4月20日で、青葉が茂り、ちょうど卯の花が咲く季節です。さらに茨の花が「咲きそひて」白アンド白ですね。これを雪にもこゆる心地ぞすると締めてきました。

 そして、「古人冠を正し、衣裳を改めし事など」と藤原国之の故事を紹介して、

 卯の花をかざしに関の晴着かな 曾良

 と結んでいます。

句の心は次のようです。

「この白河の関では、修行僧のような身なりをしている私たちは晴れ着もありません。だから、代わりに卯の花をかんざしのように頭に(笠に?)挿し、白河の関を越える晴れ着といたしましょう。」

『奥の細道』では、たまに曾良の発句(俳句のこと)が登場します。

 芭蕉先生は本文で本気を出しすぎると、代わりに曾良の句がついていることがあります。これと同じパターンがこの先の松島でも起きます。

テンション上がりすぎて句を付けられなかったのか。

要所で曾良に花を持たせて、旅の労苦を労ったのか。

私には長い間疑問でした。今になって、私は優しい芭蕉先生のことだから後者のような気がしています。

なぜ発句というのか

 芭蕉は、『奥の細道』の旅で、各地に新たな門人を獲得してゆきます。それは俳諧の宗匠(先生)としての活動です。

 すでに幾人かの門人がいると言っても、旅が進むにつれて知り合い率は下がります。そして、訪れた先々で、「蕉風俳諧」の考え方を広める活動も行っています。

 俳諧とは「句を付け合ってつなげる遊び」と以前に紹介しました。

 これは、室町時代に流行った連歌から発展し、色々な形式に枝分かれしながら、江戸時代には「談林派」という一派が多くの人に支持されるようになりました。

 しかし、これも芭蕉の中では納得のゆくものではありませんでした。はじめは芭蕉も談林派の先生として、いろんな句会に顔を出していましたが、やがて深川の芭蕉庵にこもって、俳諧を芸術に高める道を模索し始めます。

 蕉風俳諧から見れば、談林派俳諧は「知識人のダジャレ大会」みたいなものです。親父ギャグが寒いのは今も昔も変わりません。

「蕉風俳諧」は多くの場合「歌仙」という形式を一巻とします。

全部で三十六句からなる連句の形式です。

こうした句の付け合いを催すことを、「歌仙を巻く」とか「俳諧一巻(ひとまき)」などと言います。

その三十六句の中の、一番最初の句を「発句」と言います。

この「発句」のみを、独立した作品として扱い、それを芸術の域まで高めたのが芭蕉先生の偉大な功績であります。

やがて「発句」は「俳句」と呼ばれるようになりました。

今では「俳句」が国民的趣味として定着し、テレビ番組でも夏井先生のコーナーが人気なのは皆様ご周知のとおりです。

 さて、ここから一気に平泉に参りたいところですが、白河の関を越えてから、旅は難渋を深めてまいります。次回はそのあたりの事情を駆け足で見てゆきたいと思います。

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