白河の関を越えて、いよいよ旅は「陸奥編」に入ってきました。

 ここまでの行程をざっと簡単に地図で振り返ってみましょう。

 白河の関に入る前に、黒羽で2週間逗留(とうりゅう)して旅の疲れを癒した話はすでにしました。

 この奥の細道の旅では、

 どんどん進む→しばらく休む→どんどん進む→しばらく休む

 というパターンを繰り返します。

江戸時代の旅

 このシリーズのどこかで、「江戸時代の旅は命がけ」と言いました。

 追い剝ぎや盗賊などの無頼の輩はどこにでもいるものです。

 ですから、江戸幕府は街道を作って交通の便を整備しました。

 それでも、安全なのは昼だけです。

 夜は街灯もありません。

 人口の密集地であった江戸でさえも「辻斬り」なんてものがあったのですから、地方の夜の街道などというのは、追い剝ぎや盗賊・山賊にとっては格好の「狩り場」です。

 したがって、旅人は街道と街道をつなぐ「宿場町」に、日没前に到着する必要がありました。

 だから、旅人はなるべく朝早くに出立して、道中の余裕を確保しながら次の宿場を目指すことをしなくてはなりません。

 白河の関を越えてからも、宿場町はなかったのかといえば、そうでもありません。ちゃんとあります。なぜなら、東北地方にもたくさんの人が住んでいるからです。

 まして、この先には、東北随一の都会であり、伊達藩が治める「仙台」があります。

 とりあえず、そこまでは大丈夫な筈なんですが、芭蕉は白河の関を越えてから「旅の労苦」を演出し始めます。

 とは言え、いきなり「旅の労苦」に突入はいたしません。

等躬さん宅で1週間過ごす

 須賀川(福島県須賀川市)は、当時も奥州街道の宿場町として栄えていましたが、そこに等躬(とうきゅう)という文化人がおりました。この人が芭蕉の古くからの友人で、芭蕉はここで7泊しています。

いつもの適当現代語訳を交えながら、本文を見てみましょう

須賀川(すかがわ)の駅に等躬(とうきゅう)といふものを訪ねて、四五日(しごにち)とどめらる。

「先づ白河の関いかに越えつるや」

と問ふ。

 須賀川の宿場町に等躬という人物を訪ねて、そこで四五日とどまりました。

(等躬)「白河の関はどうでしたか」

と聞きます。

「長途(ちょうど)の苦しみ、身心(しんしん)つかれ、かつは風景に魂うばはれ、懐旧(かいきゅう)に腸(はらわた)を断(た)ちて、はかばかしう思ひめぐらさず。

(芭蕉)「長旅の苦しみに、心身の疲れがある上、風景に魂を奪われて、昔を懐かしむ思いにはらわたが断ち切られるようになり、句を詠むどころではありませんでした。

 風流のはじめやおくの田植うた

無下(むげ)に越えんもさすがに」

と語れば、脇(わき)・第三とつづけて三巻(みまき)となしぬ。

何も句を作らずに白河の関を越えるのもどうかと思い、

風流のはじめやおくの田植うた

という句を作りました」

と語ったところ、その句を発句として、脇、第三と続けて、連句が三巻できました。(現代語訳ここまで)

 「連句が三巻」とさらりと言ってのけておりますが、俳諧が三巻もできたというのは余程の俳句好きでないと無理です

 芭蕉先生としてはお世話になった等躬さんが、きちんと芭蕉との俳諧に手合わせできる人物であると述べているのです。

飯塚で持病がおこる?

 福島市まで来ました。ここに飯坂温泉があります。

 今のような温泉旅館ではなく、いろんな宿屋に泊まっている客が利用する共同風呂が当時は一般的でした。内湯のある温泉宿は、当時はとても高級な旅館だったのです。

 芭蕉先生はどのように過ごしたでしょうか。

 飯塚では、温泉に入った後、

「あやしき貧家」

に泊めてもらいますが、そこでは一晩中

「雷」「雨漏り」「蚤(のみ)と蚊」

に責め立てられ「持病(じびょう)さへおこりて消え入るばかりになん。」と書いております。

 芭蕉先生は、胃弱と痔の持病があったのですが、それがひどくなって

「死ぬかと思った(消え入るばかりになん)」

 そうです。

 実際には、飯塚で「あやしき貧家」に泊まっていないですし、曾良の『旅日記』にも持病の話はありませんので、この部分は創作です。

持病の次はぬかり道

 この次に訪れる笠島(宮城県名取郡笠島村)でも、「このごろの五月雨(さみだれ)に道いと悪(あ)しく、身つかれ侍れば」とあります。

 梅雨時で足元の道がぬかるんでおり、これは実際そうだったようです。藤原実方が落馬して死んでしまった場所が、少し先にあったのですが、道が悪かったため訪問を断念しております。

 このように、白河の関を過ぎて、仙台にたどり着くまでの間に、芭蕉先生は旅の労苦を虚実交えて表現しています。

 仙台を過ぎると歌枕のオンパレードでそれどころでなくなります。

「みちのくの旅は結構きついぞ」

ということをここいらで一発入れておくタイミングだったのです。

 仙台では、例のごとく知り合いの家に何日か泊めてもらい、その後「多賀城」「末の松山」「塩釜明神」「松島」などの名所を次々と訪問します。私の記事では「末の松山」「松島」を取り上げてゆく予定です。どうかお楽しみに。

色男、藤原実方さん

『十訓抄(じゅっきんしょう)』という説話集があります。

「説話」というだけあって、ふんだんに説教くさいのですが、その中に藤原実方のことが出てきます。

 藤原実方は、「藤中将実方」と書いて「とうのちゅうじょうさねかた」と呼ばれていました。

 これが中々の色男で、洛中に流れる浮名の数は両手では数えきれないほどでした。

 まあ、いろいろな女性と契りを交わすので、当然恋敵(こいがたき)が現れて揉めることもあります。行成がその恋敵であったらしいということは言われていますが、私はそのあたり詳しくありません。

 しかし、それを職場ですったもんだやるのはよくありません。

 実方さんは身分も高かったので、なおさらです。

 ある日、実方は宮中で藤原行成を見かけると、

 無言のまま つかつかつか と近づいて

 バシッ

 行成の冠をはたき落としてしまいました。

 よほど憎たらしかったのでしょうね。

 された方の行成は、落ち着き払って、従者に飛ばされた冠を取りに行かせてから、

「いきなりこんなことをされるのは、まろには身に覚えのないことでおじゃる。ちゃんとわけを話すのが先ではおじゃりませんか?」(適当訳)

と言い返したところ、実方はしらけてその場から逃げてしまいました。

 なんとこの一部始終を、天皇(当時は一条天皇)が御覧になっていていました。

 かくして実方は陸奥守に左遷されてしまいます。

 その時、天皇が実方にかけた言葉が

「歌枕、見て参れ」

だったそうです。

 一条天皇と言えば、藤原氏による摂関政治が全盛期の頃です。その時代には、

「歌枕」=「東北地方」

というイメージがすっかり定着していたことがよく分かります。

 ところで、『十訓抄』にも取り上げられている実方の左遷ですが、いろいろな細かい史実を突き合わせると、

「天皇の不興を買っての左遷ではなかったのではないか?」

 という見方もあります。

 名うてのプレイボーイが、奥州の地で不幸にも落馬で命を絶ったことへの同情心から、逸話に尾ひれがついたのかもしれません。

 実方が落馬したのは、笠島のとある道祖神の前でのことでした。

 梅雨時のぬかり道に阻まれて、その道祖神の訪問を断念した芭蕉先生は次のように詠んでいます。

 笠島はいづこ五月のぬかり道

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