居酒屋『あずみや』が開店したのは、颯一郎が受験した年の3月だった。
合格発表も終わり、『あずみや』の店主である、颯一郎のお父さんが、黒縁を店に招待したのは、開店から2日目の夜だった。
店の名前は、お父さんの名字「安曇」に由来する。
目の前に並んだ卯の花和えや〆鯖には手を付けぬまま、黒縁が店主に頭を下げていた。
「力不足で、申し訳ありませんでした」
店の造りは、カウンター10席だけ。
この日カウンターに座っているのは、なぜか分からないが黒縁だけであった。
カウンターに設えてあるガラスケースには、魚の切り身や貝などが並んでおり、その奥で包丁を捌く颯一郎のお父さんの後ろには、酒の瓶が並んでいるのだが、よく見るとそうそう手に入らない銘酒が何本も並んでいる。
「先生、頭、上げてください。あいつが勝手に風邪をひいちまった。それだけのことでさ」
「いや、しかし……」
「さ、そんなことより。今日は先生の貸し切りなんで、おいらも一緒に飲ませてもらいますよ」
お父さんが、そう言って、ガラスのぐい飲みに冷酒を満たし、黒縁に乾杯を求める。
「さ、先生、おいらの仕込んだ自慢の〆鯖だ。どんどんやってくんな」
秋から冬にかけて颯一郎の成績は、順調に伸びていた。
入試直前に行われた「5教科テスト」では、過去最高の合計136点を記録し、
第一志望である「三重津工業」の合格は、ほぼ間違いないものと誰もが思っていた。
しかし、好事魔多しとは言ったもので、入試本番の朝、颯一郎は39度の高熱に襲われた。
這うようにして試験会場に行ったものの、颯一郎は試験会場の自分の席に座っているのがやっとで、問題をまともに解くことは、やはりできなかった。
結果、三重津工業は不合格となり、すべり止めで受けていた私立高校、三重津学園に進学することとなった。
颯一郎の落胆は一通りではなかった。
発熱のこともあり、試験翌日から、自室のベッドで寝ることを続けていたのだが、どう考えても熱が下がったであろう2日目の朝になっても、寝床を抜け出して部屋から出て来る様子がない。
入試本番から数えて、3日目の夜。
どうにも空腹に耐えきれなくなったらしく、颯一郎が部屋から出て、暗いキッチンで冷蔵庫を明けているところをお母さんに見つかり、そこでやっと家族と話すことになったということだ。
一通りの顛末を聞いた黒縁が、ため息をひとつついて、冷酒を一口飲みほして言う。
「で、颯一郎は元気なんですか?」
カウンター奥の備前焼の花瓶に挿している沈丁花が黒縁の目に止まる。
毎年、卒業シーズンになると、この花を目にすることになる。
それは、黒縁にとって、生徒との別れをも意味する花だ。
「ええ、もう心配いりませんよ。『おれは三重津学園でトップ取る!』とか言いながら、毎日ゲーム三昧ですわ」
がはははと安曇が笑い飛ばす。
「そんなことより、遠慮なくやってくださいよ。先生、今日はおいらのおごりなんで」
「あ、ども」などと言いながら、〆鯖を一切れ口に運んだ途端、黒縁の目がひと回り大きくなり、そして黒縁は目を閉じてその味をしばし堪能した。
「うまい……」
小さくつぶやいた黒縁に
「ありがとうございます」
と料理人らしく安曇が辞儀をする。
「こんなうまい〆鯖は、初めてです。いやあ、やられました」
二切れ目を口にする黒縁に、安曇が先ほどより深く頭を下げる。
「颯一郎をご指導いただき、ありがとうございました」
「なっ、そんな。安曇さん。やめてください。おれは奴を合格させることができなかったんです……」
下げた頭を持ち上げた安曇が、今度は黒縁ににじり寄るようにカウンターの奥から顔を寄せ、
「先生、建前を頂戴したくてお呼びしたんじゃないことくらい、分かってますよね……」
右の口角を上げながら、ぐいっと冷酒を飲み干すと、
「ささ、先生。夜っぴいていきましょうや」
言いながら、黒縁のグラスに酒を注ぐ。
「なら……わしの本音を言いましょう」
「待ってました」
「颯一郎は、あいつは、三重津学園に、どうやら呼ばれましたね」
メガネをクイッとやりながら、黒縁は持論を展開する。
「ほほう……呼ばれたと」
「そうです。本音で生きてる奴は、学校でも、仕事でも、呼ばれて行くもんですよ。たしかに、颯一郎には、工業へ進んで、自動車整備士になるという夢があった。しかし、結果的には風邪をひいて工業へは行けなかった。これが、あいつの人生にとって、マイナスになるわけないと、そうわしは思ってます」
黒縁の言葉に「うん、うん」とゆっくりうなずき、柔らかい表情をさらにゆるませて、
「今日の酒は、いい」
と笑った。
結局、二人は、この日の明け方まで飲み明かした。
(三年後)
黒縁の頭の白髪は二割増しになっていた。
居酒屋『あずみや』は、毎日そこそこの常連客で埋まる繁盛を続けており、黒縁もその常連の一人となっていた。
颯一郎が公立高校入試に失敗して、三年経った冬の日、『あずみや』の暖簾をくぐった黒縁の目には、懐かしい顔が映っていた。
「いらっしゃいまし」
頭を下げたのは、高校三年生の颯一郎だった。
幾分背が高くなったのもあるだろうが、顔から幼さがすっかり抜けて、いかにも好青年といった風の若い男子が、カウンターの中に立っていた。
「おお、颯一郎。久しぶりだな」
「師匠、ご無沙汰しております」
颯一郎は、ややよそよそしい態度を装っているが、それは他の客の手前もあろうと黒縁は勘繰った。
「大将、今日はいいもの入ってる?」
そう尋ねる黒縁に、安曇が
「先生、白焼きなんかどうだい。吉野川のウナギだよ。世間では土用なんて言うが、ほんとは冬のウナギが一番うまいんだ」
と勧めてくる。
「じゃあ、それで」
と言いながら、黒縁は、脱いだコートをカウンターの後ろにある壁のハンガーにかけ、椅子に座った。
「立派になりやがったなあ」
颯一郎に向けて目を細める黒縁に、安曇が自慢気に言い放つ。
「こいつは、春から青葉大に行くんでさ」
「え、青葉大? まじか、颯一郎!」
黒縁が颯一郎に向かって真偽を問う。
「そうなんです。おれ、高校でずっと1位だったんで、余裕で推薦もらえたんです」
「なるほど……ところで学部は?」
「文学部です」
聞いた黒縁は、口に含んだ酒を吹き出しそうになる。
「おいおい、自動車はどうなった?」
「自動車は、今も好きですよ。でも、文学も好きになりました。師匠のせいでですよ!」
あっけらかんと言い放つ颯一郎の表情は、すっきりと明るかった。
「それで、師匠にお願いがあるんです」
まっすぐな目で、颯一郎が黒縁に向き合う。
「おお、言ってみな」
「合格祝いに、特別授業を、お願いします」
頭を下げる颯一郎に、間髪入れず黒縁が答える。
「いつでも来い」
久しぶりに来た黒縁塾は、何も変わっていないと思うと同時に、変わったのは自分なのだと颯一郎は意識した。
机も椅子も、あの頃より少しだけ小さく見える。
師匠の教室で勉強したあの日々は、自分にとって意味あるものだったとはっきり言える。
入試当日に風邪をひいて、三重津工業に不合格になったことが、今では「よかった」と思える自分がここにいる。
自動車整備士になりたい夢は、たしかにあった。
しかし、それと同時に、文学という、得体の知れないものに対する興味も自分の中で大きくなっていった。
高校の3年間は、夢と興味のどちらが自分にとって重いのか、考える時間をくれた。
そして、自分は後者を取ることにした。
だから今、自分はここにいる。
おれだけに「師匠」と呼ばれたがる黒縁先生とした授業の日々が思い出される。
そして、これがいわゆる「縁」というものなのか。
「わしが、颯一郎にしてなかった授業が1つあってな」
「芭蕉ですか」
即答する颯一郎を見て、黒縁は嬉しそうに笑う。
「その通りだ。『いつか機会があったら』と言いながら、結局することができなかった」
「すいません」
「タイミングってものがあるからな。」
「では、今はどうですか?」
「分かってるじゃねえか」
と黒縁が、すっとかばんに手を入れて紙を出すと、そこには、『おくの細道』の冒頭部が書かれていた。
―――さあ、じゃあ始めるぞ。この冒頭部はすこぶる有名で、お前も教科書で習ったことがあるとは思うが、
「楽勝で暗誦しましたよ」
そうか、さすがだな。
しかし、学校でやるのは、単に有名な作品の冒頭部の1つとして通り過ぎるぐらいだと思うのだけど、この冒頭部、よくよく読むと松尾芭蕉のラディカルさで溢れかえってる。
ああ、ラディカルってのは、とりあえず「過激」とか「急進的」ぐらいの意味で考えておいてくれや。
じゃあ本文を見ていく。
月日は百代の過客にして、行きかふ年もまた旅人なり。
船の上に生涯を浮かべ、馬の口とらへて老いをむかふる者は、日々旅にして、旅を栖とす。
ここまではまあ、世の無常観を語っているというか、どちらかと言うと、「そうだね、そうだね」と頷ける内容になっている。
問題は、次や。
古人も多く旅に死せるあり。
ここでの「古人」というのは、もう完全に西行法師が念頭にあることがばればれで、
願わくは 花の下にて 春死なん その如月の 望月のころ
と詠んで、その通りの死を迎えた西行へのリスペクトがばりばりに感じられる。
「死」とか、いきなり何を言い出すのやこいつ、と思っていたら、次の文で、
予もいづれの年よりか、片雲の風にさそわれ、漂白の思ひやまず
とある。
おいおいちょっと待て「予も」ってことは、自分も「旅に死す」を目標にしちゃあいないでしょうね?
そんなことないよね?
頭おかしいですよ大丈夫ですか?
と思う読み手を吹き飛ばすように、
いつからか分からないけれども、旅へのあこがれが止まらなくなった
という流れや。
これは、とりもなおさず「旅に死んでも後悔しないと思うようになった」という意思表示に他ならない。
いくら江戸時代だったとは言え、まあ、普通の感覚から言えば、頭おかしい部類に入るのは間違いない。
しかし、芭蕉にとっては
「何がおかしいの?」
という、自然体から発生した思想のような印象をわしは受ける。
その証拠が、ちょっと戻るけど最初の「旅を栖とす」という言葉や。
「〇〇を自分の住まいにする」という言葉を聞いて、そこに悲壮感や緊張感を感じる人はいないよな。
芭蕉の場合、その「〇〇」に「旅」が代入されるだけのことのように、感じることがある。
ところで、芭蕉はこの文章を書いた前年に、東海地方を旅している。
『笈の小文(おいのこぶみ)』という作品にそれが結実しているのだけど、その旅から帰った時の様子が少し語られていて、そのことが
海浜にさすらへ、去年の秋、江上の破屋に蜘蛛の古巣をはらひて
という短い言葉にまとめられている。
芭蕉は、一流の俳人なので、言うなれば言葉をそぎ落とす名手や。
だから、去年行ってきた旅について、こんなにあっさりした表現で済ませている。
そっから、次の旅へのはやる思いが語られるのだけど、まあ注目すべきは、ここやね。
住める方は人にゆずり、杉風が別墅に移るに
さらっと書いているけど、ふつうに考えたら「はあああああ?」となる。
つまり、自分が住んでいた家を、売っちゃったんや。
あのさ、家売るか? 普通。
しかし、さっきも言った通り、芭蕉にとって「旅が住みか」だから、もう家はいらないよねということになる。
この文章の異常さ、わしらはよくよく噛み締める必要があると思うぞ。
芭蕉は、自分の俳句の道を極めるためには「旅」が不可欠だと思っていて、自分があこがれている西行法師も旅の中で死んだ。
だったら、自分もそうすべきだ。
と考えて、本当に行動に移してしまう。
まさに、自分の人生を、自分の命というものを、理想の実現に向けてまっすぐに差し出している。
だからこそ、その旅の途上で、歴史に残る俳句をいくつも残すことができたんやろなと、わしは思ってるで。
この『おくのほそ道』の冒頭部を読んで分かることは、芭蕉は自分の理想のために命をかける覚悟があり、それは口だけでなく、実際の行動もその思いに合致させていったということやな。
そして、芭蕉はそんな透徹した行動の中で、ふわりとした優しさも見せるんや。
それが、
草の戸も 住み替る代ぞ 雛の家
表八句を庵の柱に掛け置く
自分のような、世捨て人が住んでいた粗末な家も、住む人が変われば雛人形を飾る家になるんだなあ。
が句の心や。
それだけやない。
「表八句」だから、これに続く連句を8つ作って、家の中の柱にかけて、そうして自分が住んでいた家を去ったんや。
自分の後に住む家族に対してのプレゼントや。
連句をしたことがある人間なら分かるけど、発句から初めて八句続けるって、結構なエネルギーやねん。
わしの感覚で言えば、原稿用紙10枚分の文章を書くくらいのパワーを消費する。
まあ、芭蕉先生やから、すらすら~と八句作ってしもたかも知れんけど、それをわざわざ作って、引っ越してくる家族に手向ける心遣いに、芭蕉先生の人間的な優しさを感じずにはいられないんやね。
「コーヒーを出してあげるみたいなイメージですね」
颯一郎がいきなり言ったので、黒縁は
「え?」
となった。
「芭蕉さんの俳句って、つぶつぶのコーヒー豆を細かくミルして、それをフィルターにかけて、お湯を注いだ後に出て来る、一杯のおいしいコーヒーみたいな感じがします」
実はこの時、颯一郎の言葉に感動した黒縁は、涙が出そうになるのをぐっとこらえていた。
颯一郎の感性に、ちょっと普通の子とは違う何かを感じていたのはたしかだが、それがここまでのものだったとは。こいつには文学の才能があるかもしれない。
その才能とは、一杯のコーヒーというたとえを通じて、詩歌の持つ本質をとらえようとする姿勢に現れていると思わされる。
その才能が「書くこと」に現れるのか、「読むこと」に現れるのかは、そんなことはもうどちらでもよかった。
「颯一郎、それ、最高のたとえやな」
え? 褒められた? 何気なく感じたままを言ったことを、まさかこんなに褒めてもらえるなんて、颯一郎にとってこれは初めてのことかもしれなかった。
「ありがとうございます!」
教室を閉め、階段を下りきったところで、黒縁が颯一郎に声をかけた。
「大学行ったら、ええ先生見つけるんやで。世の中わしよりすごい奴はぎょうさんおるからな」
だが、颯一郎は首を縦にふらなかった。
「そうなんですか。おれの師匠は師匠ですよ。おれ、親父の店の手伝いも続けますし」
「そうか、なんか腐れ縁みたいで、あれやな」
「あれって何ですか?」
「あれは、あれやんけ。秘すれば花ってやつや、皆まで言わせるな」
「ところで師匠、今夜の晩御飯は何ですか?」
夜空には、雲一つなく月もない、まだ冷たい早春の空に星々がまたたく。
「今夜の晩飯か……なんやろうなあ……」
駐車場へ去る黒縁の背中に頭を下げた後、空を見上げた颯一郎の瞳には、オリオン座がくっきりと光っていた。
(おしまい)