(小説)黒縁師匠隋聞記 第9話 白川の関

(小説)黒縁師匠隋聞記 第9話 白川の関

 

新しく開店する店の改装作業に追われていた颯一郎のお父さんが、この日は久しぶりに早く仕事が終わり、珍しく夫婦揃って夕食をとることができた。

食後のかたずけも終わり、ダイニングテーブルに向い合せで、話をしているのは颯一郎のお母さんとお父さんだ。

今、颯一郎は黒縁塾に行っている。

時計は午後8時を回り、いつもならば、もうすぐ颯一郎が返って来る頃だ。

「颯一郎の成績、なんとか合格圏まで上がってきたみたい」

2学期はじめの「5教科テスト」の結果、颯一郎は合計120点を叩き出した。

颯一郎の表情も近頃は明るいし、勉強にも前向きに取り組む雰囲気がお母さんにも伝わっていた。

「わたし、もっと黒縁先生のこと、信用すべきだったのかも……」

そんなお母さんの話をうんうんと聞いていたお父さんは、ビールの入ったグラスを片手にしている。

「あなた。颯一郎の成績には興味ないものね」

いつも、心配する役目ばかり引き受けて、損な役回りだと言わんばかりに、お母さんがお父さんにつっかかる。

「ああ、興味ないというより、颯一郎ががんばることだから、おいら助けてやれないからな」

「それは分かってますよ」

「ああ、そうそう」

何かを思い出したようにお父さんが目を輝かす。

「黒縁先生だが、うちの店がもうすぐ出来るから、ご招待したいと思ってるんだ」

「まあ、それはお好きになさればいいけど」

颯一郎のお父さんは、古びたラーメン屋を買い取って、それを改装していたのだが、来月に新しく居酒屋として開店することになっている。

店主であるお父さんが、黒縁先生を「ご招待」と言っているからには、開店記念の特別価格でご馳走するという意味なのだろう。

「あのお人はね、おいらと同じ『匂い』がしたんだ」

料理人一筋のお父さんは、独特な言い回しで黒縁に感じたことを説明するが、同じ「匂い」と言われても、お母さんには具体的な内容はよく分からない。

分かることは、お父さんが、黒縁先生のことが気に入ったということだ。

(何か、通じ合うものがあったにちがいない)

そういう想像は、お母さんとしても感じるところではあった。

「師匠。おれ、やりました」

「おお、よかったのう」

同じ頃、黒縁塾の教室では、颯一郎の成績向上を喜ぶ2人の姿があった。

「じゃあ、後は数学か……」

黒縁がつぶやいた。

「あ、はい……」

今回の5教科テストで、颯一郎は合計120点という過去最高の点数を取ったものの、数学は50点満点中12点と振るわなかった。

もともと、英語と歴史に集中して勉強してきた1ヶ月だったので、数学には期待していなかったが、今後のことを考えると放置するべきではないと颯一郎も感じていたところだ。

「でもまあ、慌てる必要はない。おい、颯一郎。今日も脱線するか」

 

はじめの頃は、この「特別授業」と言っていいのか「脱線」と言っていいのか分からない黒縁の授業だが、

単に「学校では教えてくれないことだから」というだけで颯一郎の興味を引いていた。

しかし、ここ最近になって、「どうも黒縁師匠も、普通の授業よりも、この授業をしたがっているのではないか」という雰囲気を、颯一郎も感じるようになっていた。

颯一郎自身にとっても、この「脱線」は始めから楽しみであった。

黒縁がいつか言っていた「本当の勉強」が、そこにあるかもしれないという思いもあった。

それは、テストの点数や、学年順位とは全く関係のない「何か」だった。

 

2学期はじめの「5教科テスト」の結果が配られた日、陽彦が颯一郎のところにやってきた。

「お前、結局『うちの塾』に来なかったな」

陽彦の言う『うちの塾』とは、もちろんビシバシ塾のことである。

「で、成績どうだったんだよ」

そう陽彦に聞かれた颯一郎は、黙って成績が印字されたいつもの細長い紙を陽彦に渡した。

「え……これ、お前、めっちゃ上がってない?」

意外そうに言う陽彦に、颯一郎が照れ笑いを交えながら答える。

「うん、なんか、上がった」

「へぇぇ、『ブッチ塾』って、お前に合ってるんだ」

その陽彦の言葉を聞いた颯一郎は、「何が」とは分からないのだけれど、その言い草に少し腹が立った。

「陽彦さあ。とりあえず、その『ブッチ塾』っての、やめろや」

颯一郎にしては、珍しくはっきりと、物を言った。

「あ、すまん……」

陽彦も、すぐに謝った。

しかし、今回の自分の成績がなければ、こうして陽彦が自分に謝ることもなかったのかもしれないと思う。

このとき颯一郎は、陽彦が、自分とは違う世界線を生きる人なのかと、少し悲しい気持ちが胸にわだかまっていた。

 

「ほんならいくで。今日は本気モードや」

黒縁が数首の和歌をパソコンで打ち込んで、印刷にかけた。

 

白川の関・関連和歌

平兼盛

たよりあらば いかで都へ 告げやらむ 今日白川の 関は越えぬと

 

能因法師

都をば 霞とともに 立ちしかど 秋風ぞ吹く 白川の関

 

源頼政

みやこには まだ青葉にて 見しかども もみぢちりしく 白川の関

 

藤原定家

夕づく夜 入りぬる影も とまりけり 卯の花咲ける 白川の関

 

藤原季通すえみち

見て過ぐる 人しなければ うの花の 咲ける垣根や しら河の関

 

久我通光こがみちてる

しらかはの せきの秋とは 聞きしかど 初わくる やまのべの道

 

 

「ここには、白川の関のことを詠んだ歌が6首ある。とりあえず、5回ずつ音読してきて」

「分かりました」

颯一郎は、黒縁に言われるまま、素直に自分の席にもどって音読を行う。

「黒縁塾ってどんな塾?」と聞かれたら、「たくさん音読させられる塾」と颯一郎は答えるだろう。

通い始めて3年目になった颯一郎は、黒縁が「音読してこい」と言いそうなタイミングをすっかり分かるようになっていた。

和歌の音読を終えた颯一郎が、黒縁の机の前にもどってくると

「お、よっしゃ」

と黒縁は日本地図のポスターを広げる。

「『都をば霞とともに立ちしかど秋風ぞ吹く白川の関』とあるが、この『都』は京都な」

ふたをしたままの赤ペンで、黒縁が京都を指す。

「そして、白川の関はこのあたりにある。栃木県北部の那須町から県境をまたいで、福島県に入ってわりとすぐの所や。さて、昔は新幹線も飛行機もないので、京都を出発したときには『春の霞』が立っていたのだが、白川の関にたどり着いたら秋風が吹いていたという歌や。その次の頼政の歌も似たような感じで、『青葉』は5月ごろ、『紅葉』が11月ごろと考えたら、やっぱり半年くらいになる」

「往復したら1年ってことですか?」

颯一郎がありえないという顔をする。

「そうや。学年が1つ変わってしまうな。現代人にはよくわからない感覚かもしれないけど、ああ、そうやな……そうそう、今の人類は、火星まで行って帰って来るのに2~3年かかるらしい」

「めっちゃ遠……」

「昔の京都人にとっても、白川の関ってそんな感覚だったかもな。だからこそ、到着したときの感慨深さは、わしらがどこかへ旅行に行って感じる何かとは比べ物にならない。なので、和歌の1つや2つは歌いたくなる。これにより、白川の関でみんなが歌を詠むようになり、『お題』として定着する。こうしてお題として定着した土地や名所のことを『歌枕』というんや。ちなみに、この『都をば』を詠んだ能因法師は、実際に白川の関に行ったか行ってないのか、不明や」

「行ってないかもしれないんですか?」

「その可能性はある。『古今著聞集』という本があって、それには『行かずに詠んだ』とはっきり書かれている」

「じゃあ本当に行ってないんですね?」

「う~ん……そうやねえ、何というか、どっちでもいい。しかも、『火星がどうこう』言うといてすまないが、京都から白川の関まで行くのに、本当に半年かかってたのかもあやしい。そんなことよりも、この歌によって、白川の関が歌枕として脚光を浴びたことの方が大きいな。おかげで、その後の歌人たちが白川の関の歌をたくさん詠んでくれたし、芭蕉の白川の関へのあこがれにもつながってくる」

ここで、黒縁はパソコン画面に「それじゃここでキーワードや。ここの歌の中から取り出す」と言いながら文字を打つ。

 

たより いかで都へ 秋風 青葉 紅葉 うの花 雪

 

 

「では、次に松尾芭蕉の『おくの細道』白川の関の段を見ていくで」

 

白川の関

心もとなき日数ひかずかさなるままに、白川の関にかかりて旅心さだまりぬ。

「いかで都へ」とたより求めしもことわりなり。

中にも此の関は三関さんかんいつにして、風騒ふうそうの人、心をとどむ。

秋風を耳にのこし、紅葉をおもかげにして、青葉のこずえなおあはれなり。

卯の花の白妙しろたえに、いばらの花の咲きそひて、雪にもこゆる心地ぞする。

古人こじん、冠を正し、衣裳を改めし事など、清輔きよすけの筆にとどめ置かれしとぞ。

 

卯の花を かざしに関の 晴着かな 曾良

 

「さあ、何か気がついたかな」

「さっきのキーワードが、全部入ってる……」

「そうや。松尾芭蕉という人は、こういうことをしれーっとやりよるんや。200文字ちょっとの短い文章に、『どんだけ?』というくらい仕込んでて、情報量がモリモリや」

「松尾芭蕉は全部覚えてたんですか?」

「当たり前やん。ちまちま調べながらこんな文章書けるわけない」

 

―――冒頭、「心もとなき日数かさなるままに、白川の関にかかりて旅心定まりぬ」とある。

ここで、旅程の話をしよう。

芭蕉が奥の細道の旅で、江戸を出発したのが3月27日。

そして、白川の関に到着したのが4月20日。

江戸を出発して23日後には白川の関に到着している。

ただし、そのうち13日間は黒羽という所でだらだらしてたから、移動に使った日は10日前後となる。

江戸から白川の関まで約330㎞なので、移動する日は、1日あたり30㎞ちょっと歩いていたことになり、これは江戸時代の旅人としてはまあ普通の範囲内になる。

 

さて、ここで、京都から江戸について考える。

江戸時代に東海道を通って京都から江戸を歩いて旅すると、約2週間で着いたそうや。

その距離は約490㎞。

ここに、江戸から白川の関を足しても、日数的には全部で1ヶ月以内となるので、最初に見た能因法師や源頼政の和歌にあるように、京都から白川の関へ行くのに半年もかかるというのは、実は盛ってるんちゃうかという疑惑が生じる。

要は、「とても遠い」ということを強調するために、大げさに詠んだだけかも知れない。

平安時代は、江戸時代のように街道が整備されていなかったし、平安時代の関東平野はほとんど湿地で、あまり人が住んでなかった。

そうした条件の違いを差し引いても、江戸時代であれば1ヶ月くらいで行けた場所へ、平安時代は6ヶ月かかりましたって、ちょっと差がありすぎるなあとは思う。

まあ、実際どうやったかは知らん。

しかし、芭蕉は「心もとなき日数」とか「旅心定まりぬ」とか、旅情を前面に押し出して、上で見たようにたくさんの和歌を踏まえた文章をこれでもかと書き連ねる。

そうすることで、白川の関にたどり着いたことの深い感慨を表現しているんやけど……

「心もとなき日数かさなるままに」←まだ1ヶ月経ってないですやん

「旅心定まりぬ」←黒羽で2週間遊んでましたやん

みたいに突っ込みたくなるのは、この場合ぐっとこらえなあかん。

芭蕉はここで、能因法師から続く「歌枕としての白川の関」という歴史と、そこに「風騒の人」つまり、風雅を愛する人々の白川の関へのノスタルジーを背負ってこの文章を書いているんや。

芭蕉かて、まさか自分が死んだ後になって、『おくの細道』が専門家をはじめ大勢の人によって研究し尽くされ、こすり倒されるとは思ってなかっただろうし、今こうして田舎でしょうもない塾やってるわしに

「心もとなき日数かさなるままに」←まだ1ヶ月経ってないですやん

「旅心定まりぬ」←黒羽で2週間遊んでましたやん

みたいな突っ込み入れられるなんて、完全に想定外やとは思う。

卯の花をかざしに関の晴着かな 曾良

 

黒縁流現代語訳

白川の関を通るのに正装すべきところですが、私たちは晴着も持たない旅人なので、卯の花を笠にかんざしのように挿し、それを関所を通る正装代わりといたします。

 

白川の関を越えると、そこから先は陸奥の国となる。

むかし、陸奥の国と呼ばれた場所は、どんな地域だったのか。

平安時代初期に、坂上田村麻呂が東北を平定したものの、平安末期には奥州藤原氏が台頭して独自勢力となる。

昔から、中央政府に抵抗したり、独自勢力を築いたりという土地であり、その境目が白川の関だった。

坂上田村麻呂の東北平定によって、陸奥の国は「野蛮な蝦夷がいるおっかない国」ではなくなり、平安時代には陸奥守という国主も派遣されるようになったものの、まだまだ当時の人々にとっては、別世界に足を踏み入れる境界線のようなものだったかもしれない。

江戸時代になると、そこには仙台藩があり、奥州街道も整備されていたので、もはや「別世界」と思う人はいなかっただろう。

しかし、芭蕉にとっては、白川の関は「これからが旅本番」という大きな区切りになったことは間違いないね。実際、この白川の関を過ぎてから、後世に残る俳句を数多く生んでいる。

では、この旅というのが、芭蕉にとってどういうものだったのか。

それはまた、機会があれば話をしようと思う―――

 

「まあ、これからテストが続いて忙しくなるから、かなり先になるやろな」

黒縁は、無表情で数学のプリントをパラパラめくりながら続ける。

「それに、次の5教科テストで、お前の合計点は落ちる」

「え、なんでですか?」

そうならないように、ちゃんと勉強するつもりの颯一郎だ。

「社会の配点が、次から変わる。今回は50点満点で、地理25点、歴史25点やったが、次回から公民が加わる。地歴公民それぞれ16点16点18点で合計50点や」

「じゃあおれ、公民がんばります」

颯一郎の言葉に、黒縁は数学のプリントをめくっていた手を止めた。

「それは勝手にがんばれ。ここでは数学を鍛える」

「す……数学……」

計算が苦手、証明が苦手、図形も苦手、関数も苦手……

ようするに、数学は全部苦手な颯一郎であった。

「めっちゃ苦手なんですけど」

「だから伸びしろがあるんや。1、2年でさぼった分を取り返すだけの簡単なお仕事や」

事もなげに言う黒縁だった。

5教科テスト、中間テスト、5教科テスト、そして、運動会。その後すぐに期末テスト。冬休みがあって、直後に5教科テスト……中学3年生にとって、怒涛の2学期が、始まった。

(最終話へ続く)