「星の王子さま」翻訳者河野真理子さんによる後書きの書き取り(メモ)しました

「いちばんたいせつなことは、目に見えない。」

「努めなければならないのは、自分を完成することだ。

試みなければならないのは、

山野のあいだにぽつりぽつりと光っている

あのともしびたちと心を通じ合うことだ。」

 

「星の王子さま」はコミュニズムやファシズムが世界中に広がっていた時代の中で生まれた。

コミュニズム
共産主義。政治、経済分野での思想や理論・社会運動・政治体制の一つで、財産の一部または全部を共同所有することで平等な社会を目指す。
ファシズム
イタリヤのベニート・ムッソリーニと彼が率いた政党のファシスト党が提唱した思想、および1922年から1943年にかけてのイタリアで実践された政治体制のこと。
転じて第二次世界大戦の枢軸国陣営に属するイタリアやドイツなどで実践されていた独裁的な権力、反対勢力への徹底的な弾圧、産業と商取引の制御といった思想・政体・運動を示す意味として用いられることもある。
第二次世界大戦中やそれ以降では、全体主義や軍国主義を包括して指す言葉としても使用されるようになった。日本語では「結束主義」とも呼ばれる。

サン・テグジュペリの祖国フランスの中でも、ペタン派とド・ゴール派の争いがあった。

だがそのどれにもくみしなかった彼は、もっと大きな「人類」としての連帯ということを常に考えていたのだろう。

「なぜ憎みあうのか?

 ぼくらは同じ地球によって運ばれる連帯責任者だ。

 同じ船の乗組員だ。」

 

サン・テグジュペリは「行動主義文学」の作家と言われている。

行動する人であり、夢想する人であった。

行動主義文学
1925~30年ごろのフランスに現れた、思考、論理に対して行動を重視する考え方の文学。
マルロー、サン・テグジュペリなどが代表的作家。それぞれの「行動」の意味するところは異なるが、行動による認識を通じて新しい文学の領域を開拓しようとした。日本においても35年小松清によって紹介されて大きな反響を呼んだ。

 

1900年6月29日

リヨンでフランスの由緒正しい貴族の長男として生まれる。

本名:アントワーヌ・マリー・ジャン=バティスト・ロジェ・ド・サン=テグジュペリ

五人きょうだいの三番目。

緑豊かな素晴らしい城館が住まいだった。

〈※「星の王子さま」に「秘密をひとつ隠していた」古い時代に建てられて家の話が出てくる。まさにそういう家だっただろう。〉

クリスマスの光輝く思い出

大好きだった母親……美しく、文学や音楽の教養があり、絵画については自作が買い上げらたこともあるほどだった。

金髪のアントワーヌは「太陽王」と呼ばれ、かわいがられたという。

 

1903年

3才で父親が亡くなる。

1906年

16才で2才年下の弟フランソワも心臓リュウマチで亡くなる。

(死の床で「こわくない。苦しくなんかない。」と言い続けたという。「これは単に発作を止めることができないだけ。体がやっているだけ。」と。)

〈王子さまの最後の言葉のいくつかに重ね合わせてしまう。〉

学校……父親の母校のイエズス会のノートルダム・サント・クロワ学院など

 

1912年

12才の頃、近所の70馬力エンジンの戦闘機に乗せてもらい、「空の洗礼」を受ける。

空にあこがれる

1914年 

第一次世界大戦勃発

母が負傷兵の看護で多忙になってからは寄宿学校をいくつか経験した。

そこでの生活は寂しい思いをした。

親族会議で海軍士官になるように指示される。

海軍兵学校を受験するが、不合格になる。

パリ美術学校で聴講生として過ごす。

1921年

21才。義務兵役に服し、ようやく飛行連隊に入る。

はじめは飛ぶことができず、雑用の多い地上勤務員だった。

だが、ここで彼は頑張った。

自分で飛行訓練を始め、民間の飛行免許を取得して予備少尉に任官される。

 

兵役終了後

タイル製造会社に入社。

パリの会社員になる。

憧れの婚約者「ルイーズ・ド・ヴィルモラン」の家族に危険な飛行士はダメだと反対されたから。

彼女とは破談になる。

真剣だったアントワーヌに対して、自由奔放なルイーズは面白半分に婚約しただけだったと伝えられている。

彼女は「バラの花」のモデルのひとりとも言われている。

 

破談後

タイル会社退職。

トラック会社に転職。

地方でトラックを売る営業マンという試練と向き合う。

1年半で1台しかトラックは売れなかった。

1925年

遊覧飛行などをさせる小さな航空会社に入る。

正規の商業機操縦の資格を取得する。

ラテコエール航空会社に採用される。

南仏トゥールーズからアフリカのカサブランカ、ダカールまでを郵便輸送の路線パイロットとして飛ぶ。

(やがてラテコエール社は南米路線開拓を引き受けたアエロポスタル社に経営を引き継がれる。)

その翌年、モロッコ南西部の陸の孤島キップ・ジュビー飛行場に任命される。

一方を海、三方を砂漠に囲まれた文字通り陸の孤島。

遊牧民のモール人はヨーロッパの植民地主義に対して、徹底して「帰順」しない反抗者「不帰順族」だった。

軽蔑する白人を捕らえ、捕虜にし、虐殺した。砂漠に不時着した飛行士を人質にしたり殺害したりということもあった。

アントワーヌは危険を冒しながら彼らを救出したり、遊牧民と粘り強い交渉をしたりして見事に飛行場長としての役目を果たした。

孤独な生活の友として「ものすごく耳の長いキツネ(フェネック)」を飼っていたとのこと。

キップ・ジュビー
作家、翻訳家である田中真知さんのブログ記事
「アルジェリア人質事件について思うこと、あるいはサン・テグジュペリと不帰順砂漠」内にキップ・ジュビーの地でサン・テグジュペリが体験した試練とそれに向き合う行動についての具体的内容が記されています。
【王様の耳そうじ 田中真知】より

飛行場長任務終了後

アエロポスタル社の現地法人の支配人として南米ブエノスアイレスに派遣される。

1929年

29才。運命の出会いがある。

サン・サルバドル出身で夫を亡くしたばかりの小柄な美女、黒い髪と黒い瞳のコンスエロに一目ぼれする。

1930年

30才。フランスに帰国して結婚式を挙げる。

〈王子さまのバラの花は①コンスエロ、②ルイーズ、③祖国フランスなどと言われている。〉

コンスエロ
喘息の持病があり、しょっちゅう咳をし、隙間風が大嫌いだった。
故郷の中南米とフランスを比べては「私が前にいたところは・・・」などといっていた。
気難しくて、見栄っ張りで、お洒落で芸術的な才能にも恵まれていた。

 

結婚3年目くらいして

結婚生活は不安定になる。別居したりまたよりを戻したりの繰り返しになる。

繊細で、敏感で、芸術的で、そんな気の合うところもありつつ、

アントワーヌのコンスエロへの強い束縛、そして飛行士としての長期不在とを繰り返す不安定さがもたらすコンスエロのストレスがあった。

同時期にコンスエロの周囲の女友達からの無責任な吹込みもあったようだ。

そういう具合で二人の間に何かズレが生じたときの衝突はしんどかったようだ。

だが、生涯離婚はしなかった。

そこには愛情がベースにあったことを感じさせる。

〈バラと王子さまの別れの場面は読むと思わず胸が締め付けられる〉

 

 

アエロポスタル社の財政危機と内紛がおこる

結婚生活だけでなく、パイロットとしても不安定な状態に追い込まれていく。

アントワーヌはアエロポスタル社を退社する。

テストパイロット。

フリーで視察飛行。

特派員として記事を書く。などいろいろな仕事を行う。

1935年

35才。賞金のかかっていたパリ=サイゴン間の飛行記録に挑戦し、リビア砂漠に不時着して生死の間をさまよう。

1939年

第二次世界大戦開始

アントワーヌは予備空軍大尉として召集を受ける。

偵察飛行大隊に編入。

その後、アルジェで動員解除される。

 

第二次世界大戦の戦況が悪化

『人間の土地』のアメリカ版『風と砂と星』がベストセラーになる。

出版社からアメリカへ誘われる。

1940年

大晦日に渡米。

『風と砂と星』が全米図書賞を受けて栄光に包まれる。

やがて、米国内のフランス人の間に政治的な争いが起きて孤立を深めていく。

 

1942年

出版社に「クリスマスのための子どもにむけた話」を書いてほしいと依頼される。

砂漠に不時着したときの記憶がよみがえる

1943年

春、

"Le Petit Prince"

アメリカ版 "The Little Prince"誕生

連合軍の原隊に志願復帰する。

パイロットの年齢は32才と決められている中、42才の身で苦しい訓練を積んでの入隊だった。

事故を起こし、一度は任務を外される。

それでも友人の仲介を通して5回のみという条件付きで基地に戻してもらう。

とにかく大空が最も心の落ち着く居場所だったようだ。

 

1944年

5回という条件を無視し、アントワーヌは8回目の飛翔をする。

7月31日、サン・テグジュペリ44才。

 

2000年

5月、サン・テグジュペリの乗っていた飛行機の残骸がマルセイユの沖で発見された。

残されたトランクの中から『城砦』という未完の大作が見つかった。

だが、結果完成作品としては

『星の王子さま』

が最後の作品となった。

 

 

レオン・ヴェルトに

この本を、こうしてひとりの大人にささげたことを、子どものみなさんは許してほしい。なにしろ大事なわけがある。この人は、この世でいちばんのぼくの親友なのだ。もうひとつ。おとなだけれど、なんでもわかる人なのだ。子どものために書かれた本でさえ。そして三つめ。このひとは今フランスに住んでいて、おなかをすかせ、寒い思いをしているので、なんとかなぐさめてあげたいのだ。それでもみなさんが納得してくれないなら、この本は、昔子どもだったころのその人に、ささげるということにしたい。おとなだって、はじめはみんな子どもだったのだから。(でもそれを忘れずにいる人は、ほとんどいない。) そうして献辞は、こう変えることにしよう。

小さな男の子だったころの

レオン・ヴェルトに

レオン・ヴェルト
1931年頃知り合って互いに無二の親友となる。
サン・テグジュペリよりも22才も年上だった。
ジャーナリスト、批評家、作家などの仕事もしていた。
第一次世界大戦の経験から、熱烈な平和主義者だったという。
ユダヤ人であったため、ナチスによる当時の弾圧をさけてフランス東部のジュラ山脈にあった山荘に隠れ住んでいたそうだ。

 

参考

【Weblio辞書】

【コトバンク】

【王様の耳そうじ(田中真知)】

【サン=テグジュペリ研究 -『南方郵便機』と『夜間飛行』について-(平井裕)】

【サン・テグジュペリの『ある人質への手紙』の背景(加藤宏幸)】

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さくらぷりんと
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