奥の細道談義 第6回 末の松山

いよいよ仙台に入ります。

ここからは、楽しみな場所が目白押しです。

今回は超絶有名歌枕末の松山ですが、末の松山が歌枕になるいきさつには、悲しい背景がありました。

 

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 仙台でのんびり

仙台入りした芭蕉先生は5月4日から8日まで、4泊しています。

芭蕉先生奥の細道の旅に出る七年前、『松嶋眺望集』という本が刊行されています。

撰者は大淀三千風(おおよどみちかぜ)といい、仙台藩の命で史跡整理を任されるなど、当時の仙台を代表する文化人でした。

『松嶋眺望集』には、芭蕉先生桃青の号で作品を寄せています。

(桃青は、芭蕉の若い頃の俳号)

仙台入りした芭蕉先生は、大淀三千風に会うのを楽しみにしていたようです。

ところが、芭蕉先生と入れ違いで三千風は仙台から旅に出た後でした。

そういうことで、三千風の高弟である北野加之(きたのかし)という人が、仙台の観光案内をしています。

本文では「画工加右衛門(がこうかえもん)」の名前で見ることができます。

8日は仙台を後にして、多賀城へ寄り、塩釜に向かいます。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 末の松山(本文)

末の松山・本文
それより野田の玉川、沖の石を尋ぬ。
それ より のだの たまがわ、おきの いしを たずぬ
末の松山は寺を造りて末松山といふ。
すえの まつやまは てらを つくりて まっしょうざんと いう。
松のあひあひみな墓原にて、
まつの あいあい みな はかはらにて、
羽をかはし枝を連ぬるちぎりの末も、
はねを かわし えだを つらぬる ちぎりの すえも
終はかくのごときと悲しさもまさりて、
ついは かくの ごときと かなしさも まさりて、
塩竈の浦に入相のかねを聞く。
しおがまの うらに いりあいの かねを きく。
五月雨の空聊か晴れて、
さみだれの そら いささか はれて、
夕月夜かすかに、籬が島もほど近し。
ゆうづくよ かすかに、まがきが しまも ほどちかし。
蜑の小舟こぎつれて肴分つ声々に、
あまの おぶね こぎつれて さかな わかつ こえごえに、
「つなでかなしも」と詠みけん心もしられて、いとど哀なり。
つなでかなしもと よみけん こころも しられて、いとど あわれなり。

沖の石

それより野田の玉川、沖の石を尋ぬ。

(それよりのだのたまがわ、おきのいしをたずぬ)

野田の玉川沖の石も、宮城県多賀城市にあります。

リンク先では、浮島多賀城碑も見ることができます。

 

野田の玉川を詠みこんだ代表的な歌はこれです。

ゆふされば しほ風こして みちのくの のだの玉河 千鳥なくなり能因法師)

 そして、沖の石と言えばこの歌ですね。百人一首にも入っています。

わが袖は しほひに見えぬ おきの石の 人こそしらね かわくまぞなき二条院讃岐)

この歌の詳しい解説は、こちらの記事でやっております。

 

 末の松山

 

末の松山は寺を造りて末松山といふ。

(すえのまつやまはてらをつくりてまっしょうざんという。)

末の松山末松山宝国寺の境内にある、二本の松の古木です。

〔引用元 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%AB%E3%81%AE%E6%9D%BE%E5%B1%B1〕

 

 

この松の木を波が越えることはあり得ないことから、

私があなたを裏切るのもあり得ないことです

とたとえる歌がよく詠まれました。

君をおきて あだし心を わがもたば すゑの松山 浪もこえなむ(東歌)

読み人知らずの歌です。「あだし心」とは「あだ心」、つまり浮気心のことです。 

「あなたをさしおいて、私が浮気心を持つとしたら、あの末の松山を波が越えていくことでしょう。そんなことはあり得ません。」

ほどの意味です。

ご存じの方も多いでしょうが、平安時代初期に東日本大震災と同規模の大地震が起こっています。

貞観地震(じょうがんじしん)と言われるこの地震は貞観11年(西暦869年)に起こり、この地震による津波でも末の松山は流されませんでした。

「末の松山」の言葉には、この貞観地震での津波の経験が含まれています。

そして、古今和歌集の成立が905年であり、この歌が〔巻二十・東歌陸奥歌〕に収録されていることから、東歌が伝搬するのに40年かかっていないことが分かります。

貞観3年から10年にかけては、隕石落下、富士山の噴火、播磨大地震と、立て続けの災害が各地で起こりました。

そしてとどめの陸奥での震災です。

この歌には「波も越えなむ」とありますが、そのようなことは起こってほしくないという祈りも込められているような気がします。

だとしたら、この歌は単なる相聞歌以上の感慨をもって、当時の人々の心を打ったのではないでしょうか。

 こうした背景を考えながら、芭蕉先生の文に再び目をやります。

宝国寺の境内での記述です。

 

松のあひあひみな墓原にて、

(まつのあいあいみなはかはらにて)

羽をかはし枝を連ぬるちぎりの末も、

(はねをかわしえだをつらぬるちぎりのすえも)

終はかくのごときと悲しさもまさりて、

(ついはかくのごときとかなしさもまさりて)

塩竈の浦に入相のかねを聞く。

 (しおがまのうらにいりあいのかねをきく)

この文が、単に世の無常を嘆くだけでなく、被災して亡くなった人々への鎮魂の含みがあるのではないかと思えてきます。

松のあひあひみな墓原

とありますが、寺に墓があるのは当たり前なのに、敢えて書いているのはなぜかなと勘繰ってしまいます。

考えすぎでしょうか。

 羽をかはし枝を連ぬるちぎり

は白居易の長恨歌を出典とする「比翼の鳥・連理の枝」のことです。男女の深い契りのことを指します。

つなでかなしも

  五月雨の空聊か晴れて、夕月夜かすかに、籬が島もほど近し。

(さみだれのそらいささかはれて、ゆうづくよかすかに、まがきがしまもほどちかし。)

蜑の小舟こぎつれて肴分つ声々に、「つなでかなしも」と詠みけん心もしられて、いとど哀なり。

(あまのおぶべこぎつれてさかなわかつこえごえに、「つなでかなしも」とよみけんこころもしられて、いとどあわれなり。

 

籬が島は、当時は塩釜湾内に浮かぶ小島でした。

島内に曲木神社(籬神社)があったのですが、今は神社は陸にあり、小島には赤い橋がかけられています。

多賀城市や塩釜市はお魚もおいしそうだし、史跡や歌枕もたくさんあるので、一度行ってみたいものです。

末の松山を見ながら入相の鐘を聞き、

夕暮れ時の漁港に漁から戻ってきた小舟たちが浮かぶのを見れば、

芭蕉先生でなくても深い情緒を感じることでしょう。

みちのくは いづくはあれど しおがまの 浦こぐ舟の つなでかなしも(東歌)

さて、次回はいよいよ奥の細道の旅前半のラスボスである松島です。

 

教室の詳しい内容はこちらです
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