
(レイアウトが壊れたため記事をリメイクしました)
私は、古典文学を専門とする学者でも何でもないので、古典を読むときは、自分の好きなように読んでいます。
きちんと調べれば、それなりにちゃんとしたことを書けなくもないでしょうが、学者ではないので、
古典って、こんなお気楽に読んじゃっていいの?
という乗りでやってまいります。
今日は、「あらとうと(笑)」で有名な日光の段です。
(笑)が大切です。よろしくお願いします。
日光(前半)
あるじのいいけるよう、
「我名を仏五左衛門といふ。
難しい言葉が多い(前半)
この段を語り出したら、酒肴なしで朝までいけるわけですが、長すぎるのもいけませんので、できる限りコンパクトにまとめたいと思います。
この段は、前半と後半に分かれていて、明らかな対比が仕組まれています。
まず四字熟語や難読語、難解語がめっちゃ出てきますので、ささっとやっつけちゃいます。
濁世も塵土も、ともに「けがれた現世」という意味ですが、重ねてきています。
乞食順礼(こつじきじゅんれい)
順礼する乞食。乞食のような恰好で旅する自分たち自身のことを指しています。
正直偏固(しょうじきへんこ)
正直で頑固なようすです。ここまで、二字熟語を合わせて四字熟語のように読ませるのを3つ続けていますね、次の言葉に調子を合わせるためです。
剛毅木訥(ごうきぼくとつ)
「剛毅木訥、仁に近し」という論語の一節です。「意思が強く、口数少ない人物こそ、「仁」に近い者である。」ほどの意味です。「仁」とは、論語の中で道徳の理想を意味します。
気稟の清質(きひんのせいしつ)
さて、いかがでしょう。
前半は、仏教用語満載の上に、論語まで持ち出して、これでもかと清貧の思想を強調しています。
しかも「桑門の乞食順礼」と自分たちのことを表現しています。
「桑門」とは、出家した世捨て人のことです。
俗世間からは距離を置いて、出家修行に努める人が「桑門」です。
やれ「濁世」だ「塵土」だとやったあとに「桑門の乞食順礼」とかぶせてきます。
そして、「仏五左衛門」を「正直」だ「仁」だと持ち上げた後に
「気稟の清質、最も尊ぶべし」
つまり、
こういうのが、最高なんだよ!
ってあれ?
じゃあ、日光東照宮はどうなるんでしょうか?
というか、この時点でまだ日光東照宮に参拝していないのに、ここで「最高っすfa-thumbs-o-up」とか言ってしまっていいのでしょうか?
後半を見ていきましょう。
日光(後半)
あらたふと 青葉若葉の 日の光
難しい言葉が多い(後半)
千年の未来です。芭蕉は名跡に立ち寄ったときに、この「千歳」という言葉をよく使います。好きなんでしょうね。
御光(みひかり)一天にかかやきて
「御光」幕府または東照大権現様のご威光。「一天」難しく考えなくてよいです、「ただ一つの天にかがやいて」ぐらいでいいのです。
恩沢八荒(おんたくはっこう)
「恩沢」=めぐみ、「八荒」=国の隅々まで。
四民安堵の栖(しみんあんどのすみか)
後半は、何やら歯の浮くような言葉が羅列されていますが、前半と対をなすように四字の熟語を中心にたたみかけた後、
「猶(なお)、憚(はばかり)多くて筆をさし置きぬ。」
あらら、芭蕉先生。筆置いちゃいました。
さて、後半がどれほど歯の浮くような内容か、適当現代語訳いってみましょう。
という調子です、ここまでくると。褒め殺しというか皮肉たっぷりというか。
とにかくそういうことです。
芭蕉先生もいっぺんやってみたかったのですかね。慇懃(いんぎん)に幕府を皮肉るということを。
江戸時代は、沢山の出版物であふれていましたが、中には幕府を批判して発禁処分になるものもありました。ですから、幕府を礼賛する内容を作品の中に挿入し、発禁を免れようとする書物も少なくありませんでした。
「あらたふと 青葉若葉の 日の光」
この句の「あらたふと(あらとうと)」は笑うところです。
現代語の感覚で考えてみましょう。
「あらまあ、すごいね」
使い方に気をつけないと、馬鹿にされているような感覚を相手に抱かせちゃいますよね。
同じです。
馬鹿にしてます。
あらあら、はいはい、すごいすごい。すごいねーがんばったねー。きらきらしてるねー。でも最高ではないですね。
一番大切なもの
大伽藍に幾多の装飾を施し、きらびやかに輝く日光東照宮、そこへ行って芭蕉は何を思うか。
狂句木枯らしの 身は竹斎に にたる哉
を詠み。
深川の自宅を人に譲って旅立った芭蕉は、何を思うでしょうか。
その先は、私たちそれぞれが想像して楽しむことにいたしましょう。
ところで、仏五左衛門は架空の人物とされています。
実在が確認されていません。
つまり、仏五左衛門の登場する前半部分は、日光東照宮で芭蕉が感じたことを際立たせるために挿入した創作なのです。
幕府を皮肉るために、手の込んだことをしたものです。
「気稟の清質、最も尊ぶべし」
という言葉を、日光東照宮へではなく、その前の仏五左衛門に贈った芭蕉先生の心の内をしみじみ味わうとしましょう。
発禁への防止策か否か
幕府礼賛に見える(しかしその内実は壮大な皮肉である)後半部分は、「発禁処分」のための防止策なのでしょうか。
私は違うと思います。
芭蕉先生は、自分の道すなわち「狂の道」を極めようと心に決めて旅をしています。
その覚悟を胸にこの『奥の細道』を書いたならば、幕府礼賛のために自分の筆を曲げる姿は想像できません。
自ら「桑門(そうもん)」と言うくらいですから、芭蕉先生はすでに半分世捨て人のようなものです。
自分のまとめた『奥の細道』が出版されるかされないかは、大した問題ではなく、あくまで自分の美を追求する一念しか芭蕉先生の頭にはなかったと思われます。
こぼれ話
出版の経緯
出版の話が出てきましたので、少し補足しておきます。
『奥の細道』の出版は、芭蕉先生の死後8年経ってから出版されました。
芭蕉のお弟子さんが清書してあったものを元に、京都の本屋さんが出版しました。
その経緯については、こちらのブログに詳しくありますので興味のある方はどうぞ。
空海大師開基
「空海大師開基のとき、日光と改め給ふ」
とありますが、これは芭蕉先生の勘違いで、実際には勝道上人という人物がこの山の開祖で、その詳しい記事はこちらで見ることができます。
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