
さて、「意味理解の後回し」に対する批判への反論はこれくらいにして、私は素読がもたらす別のメリットについて話さなくてはなりません。
私が素読を指導する本当の理由についてです。
「本当の意味での国語力が身につく」
その結果
「テストの点が上がる・成績が上がる」
「だから、多くの子供達に素読をさせましょう。」
このような功利主義的な動機というのは、
実は表面的なものであり、
これまで長年の間、心の奥底にしまっておいた本音を包み隠すベールでもありました。
直言しましょう。
日本人が本来持っていた感性、価値観、死生観、倫理観を「言霊として」自分の精神に据える。
これが素読の真髄であり、私が素読を指導する真の目的です。
私たちは、明治以来多くの伝統や精神を奪われてきました。
今やそれは風前の灯火であり、時の移ろいにつれて日本人は、その日本人らしさ、良い所が消滅しつつあります。
この激動の時代を生き抜くためには、
勉強ができるとか頭が良いとかいう以前に、
「日本人の良いところを学ぶことがすべてに先立つ」というのが私の信念です。
日本人の良いところを学んだ人が、この世の中に増えるだけで、
日本という国はうんと良くなります。
もの凄い力を発揮すると信じています。
日本人の良いところを学ぶには、まず言葉です。
私たちは、多くの言葉を失い、奪われました。
そして、素読という最適な国語学習法まで消されてしまい、忘れてしまいました。
まさに私は、この素読を中心とした国語学習過程を意図し、教材を作り続けてきました。
それは、単なる「お江戸ノスタルジー」ではなく、寺子屋の進化形を現代に具象化する仕事でした。
『実語教』という、昔の寺子屋ではごく当たり前に使用されていた教材があります。
教室では、これを日課としてほぼすべての小学生に素読してもらっています。
その冒頭部をご覧ください。
山高きが故に貴からず。木有るを以て貴しとす。
人肥えたるが故に貴からず。智有るを以て貴しとす。
富は是一生の財(たから)。身滅すれば即ち共に滅す。
智は是万代(ばんだい)の財(たから)。命終われば即ち随(したが)って行く。
ここでは、最後の行にご注目ください。
「命終われば即ち随って行く」とあります。
「死んでしまった後にも、ついてゆく」ほどの意味ですが、
現代の日本人には、ほとんど「意味」が分からないと想像しています。
「ついてゆく」とは、「何が」「何に」ついてゆくのか。
最後の行について、私の解釈を次に示します。
智(学んだこと、経験したこと)は、その命一万回分の財産である。
たとえ今世の命が終わったとしても、〔その智は〕〔魂に〕ついてゆく。
この〔 〕で示した部分、特に〔魂に〕という言葉は原文では省略されています。
省略されているということは、
「そんなこと言わなくても当然分かるはず」
と思われているからに他なりません。
ここに、昔の日本人の死生観が如実に表れているのです。
「死んでも魂は不滅だから、学んだことや経験したことは、魂の水準を上げて次の輪廻転生へ向かう」
こういうことが語られています。
命とは、魂が肉体に宿っている状態。
魂は不滅であり、「万代(一万回)」生まれかわる。
多くの人が、これを当たり前の常識として受け入れていたのです。
「魂は不滅」
「輪廻転生はある」
今の日本人の中に、この価値観をすっと受け入れられる人は、むしろ少数派なのではないでしょうか。
それほど、人の心が物質主義、科学主義、功利主義に偏り過ぎて、心がすさんでいるのかと想像します。
そういう状況から抜け出し、この世界を、やさしい世界に近づけるためにも、素読は欠くことができません。
素読という学習は、国語力向上・成績向上という言葉がかすんでしまうほどの崇高な使命の元に行われているのです。
言葉は思考を生み、思考を重ねることで信念や価値観が生まれます。
よりよい信念、よりよい価値観の始まりとなるのが言葉です。
たくさんの「よい言葉」を浴びるように学び、信念や価値観の元とする、それがまさに素読です。
日本の教育から一度は消えた素読ですが、
「これをなくしてはならない」
とばかりに、素読に言及した知識人、地方で活動する教育者は点在してきました。
私自身、路傍に生えた名もなき草に過ぎません。
しかし、枯れても次が生えてきます。
ご先祖様から受け継いだ、日本語という素晴らしい財産、素読という素晴らしい学習法を、根絶やしにすることなど、できるわけがないのです。