そろばんを練習するとき、私の教室では、
「ひじをつかないこと」
「左手もなるべく使うこと」
を一つの型として指導しています。
しかし、たまにですが、これがどうしてもできない生徒がいます。
できないだけならいいのですが、私が指摘すると
「だってこっちのほうがやりやすい」
と口ごたえする生徒もごくごくまれにいます。
虎杖くん(仮名)という生徒がこのタイプでした。
私も上手になってほしいので、
「ひじをつかない」
「左手をなるべく使う」
を何度も言って、直してもらおうとするのですが、まったく直りません。
そのうち私もいらいらしている自分に気が付いて、
「おれは何をやっているのだ?」
となりました。
もう虎杖くんには、自分の好きにやってもらう方がよいのではないかと思いました。
彼は、「型にはめられること」がイヤなのでしょう。
①「型にはめられること」がイヤで、そろばん自体がイヤになってしまう。
②自己流だけど、自分の好きなようにやって、長くそろばんを続ける。
この二択だとしたら、②の方がよいと判断しました。
こういうことは、そろばんだけでなく、あらゆる分野で起こる現象だと思います。
どの世界にも、一定の「型」があります。
「型」とは、先人たちの知恵が詰まった「上達のコツ」です。
ふつうは、その「型」を身に付けていった方が上手になります。
しかし、人間世界には、さまざまなタイプの人が存在し、
ごくまれに「型破り」な人間が存在します。
人類史上のイノベーションは、たいてい「型破り」な人間の発想によって起こってきました。
「型破り」という、一種の個性をつぶして、
何が何でも「型」に当てはめようとするのは、よくないと思いました。
これは、勉強にも当てはまると思います。
漢字の覚え方、ノートの書き方、算数の式の書き方、その他の勉強のやり方・・・・・・
たとえば、ネットの情報や、書籍において
「〇〇勉強法」
というある方法論がうまくいくとして強く推されていたとします。
しかし、その「○○勉強法」というのは、
いろいろ方法を試した発信者(筆者)が、たまたま自分に合った方法でうまくいった
というだけの話で、参考にはなるかもしれませんが、
それを万人が取り入れてうまくいくとは限りません。
結局、「○○するには、△△せよ」というのは、
あらゆる方法論の1つにすぎないので、
「これだ!」という自分に合った方法論を模索するしかありません。
指導者としては、最大公約数的な「うまくいく型」はいくつも知っている上で、
生徒の性格や特性をよく考えながら、指導する必要があると反省したところです。