浜崎洋介先生に学び教育を考える 第3回 内的自己・外的自己と教育

 

さて、前回記事で解説した「日本人の内的自己の危機」に対して、

これを社会的な病理であると考えたとき、

私たちはこの問題にどのように向き合っていけばよいか。

「教育にできること」という視点から考えました。

 

まず、今の教育制度のレールに乗って、普通に小中高大と進んでいけば、

前述したような、空虚な内的自己を持ったままの一人の社会人が出来上がりがちなのは、世相を鑑みれば自明のことに思われます。

現在の教育による優劣の価値観は、

「偏差値(テストの点数、または学年順位)」「学歴」による評価が支配的です。

もっと言えば、それによって人間的価値の優劣を、意識の奥底で決めてしまっている自分達がいるのではないでしょうか。

 

これは、毎日授業をしている私の肌感覚でも感じられるところですが、小学校1年生にして、すでに

「テストの点数が高い=いい子・頭が良い子」

という価値観を疑いなく受け入れている生徒がほとんどです。

私からすれば、ほとんど病人を相手にしているような気分になってしまいます。

 

これを「健全である」と無批判に受容するような親は論外として、

「まあ、仕方がない」

「それが世の中だ」

という諦念と

「自分の子が変な点数を取ると心配になる」

という、依り代を失った不安感、

そして、

「やはり、安定して食っていくためならなるべくいい成績を取って、いい学校に」

という妥協と安全欲の混合物。

この複数の糸が織りなす絨毯の上に子供達を乗せ、

「なるべく大過なく」「なるべく安全に」

社会人として食っていけるように運ぼうとする。

これが、私から見た「親」に関する典型的な姿勢です。

 

ここで注意したいのは、

私の中に、「親批判」「保護者批判」をする意図は寸毫もないことです。

なぜなら、

「その親もまた、元子供であり、日本人として大人のたすきを受け取り、次につないでいる一人である」

という構造を見ているからです。

 

この章のはじめに「社会的な病理」という言葉を使った通り、この問題は

「親が悪い」

「学校が悪い」

のような犯人捜しをして解決する問題ではありません。

この病理は、戦前から続いている連鎖だからです。

 

複雑に絡み合う問題の通低音を鳴らすのは、日本社会が抱える矛盾であり、

その矛盾から発生する、多種多様な「おかしな価値観」が私たちを苦しめています。

 

その、「おかしな価値観」の一つが、

高偏差値を賞賛し、

学歴が高いほど「安全で安定」「勝ち組」「優秀」であるという考え方です。

 

この価値観はあらゆる意味で「おかしい」です。

ちょっと考えれば分かることですが、人間の営みはそんなに単純なものではありません。

ちょうどこの記事の源泉となっている浜崎氏も、素晴らしい文芸批評家ですが「高偏差値」「高学歴」であるとは決して言えません。

そのような例は枚挙に暇がないので話を戻します。

 

こうした価値観のおかしさを指摘する教育関係者がたくさんいるにも関わらず、状況が好転しないのはなぜでしょうか。

 

多くの子育て中の親が、一定の違和感を抱いていることもまた、一面の真実としてあるものの、

そうした「高偏差値」「高学歴」価値観を、「状況として甘受する」ことを多くの親が選択しているのが実情です。

 

この「高偏差値」「高学歴」を重視する価値観は、

「東京大学を頂点とする」ピラミッド型の価値体系だと私は感じているのですが、

このピラミッドから外れても尚、「勉強をする意味」を定義、あるいは実践できる教育者が少ないことが大問題なのです。

それは代替案と言ってもいいし、逃げ場という人もいるかもしれないのですが、

この際、そこに対する呼び方などは私にとってはどうでもよく、

「勉強をする意味」の答えが、

「東京大学を頂点とする」ピラミッド型の価値体系でしか説明できなくなっていることが問題です。(以下、この価値観を『東大教』と呼ぶことにします)

別の言い方をすれば、多くの子育て中の親にとって、

『東大教』に代わる、説得力を持った「学びの代替案」が用意されていない現状が問題なのです。

まして、このような一元主義的で一神教的なものが、

二千年以上にわたり「八百万の神々」を信仰してきた日本人の身の丈に合うはずがないと思ってしまいます。

 

私のことをよくご存知の方は、この後何が言いたいのかは大体想像がつくと思うのですが、

「寺子屋形式の読み書きそろばん」は、「勉強をする意味」の代替案として成立すると確信しています。

代替案どころではなく、むしろ解決策として大きく機能するでしょう。

ただし、「読み書きそろばん」によって、完璧で理想的な日本人を育てようとする意図は全くありません。

自然に中今を生きる人になってもらえればよいと思っています。

私の中では、

中今を生きる人=内的自己がしっかりしている人

と理解しています。

そういう文脈の中で、「読み書きそろばん」は、子供達の内的自己を育てる大きなエネルギーとなり得ると考えています。

 

まず、そろばん学習が子供に与える力は、以前の記事でも触れました。

それは、計算力だけではない、そろばんに熟達する過程で同時に育つ「心的表象」が、得難いものであるということでした。

少しおさらいしておきましょう。

 

「心的表象」とは

①ただちに本質を見抜く力

②臨機応変な応用力

③普通の人には見えないものを見分ける識別力

④いま目の前には見えないモノ、コトの究極の姿を思い浮かべる審美眼

このような能力の背後にあり、すぐれた判断や行動を可能にしている心の中の判断基準

 

内的自己と外的自己の関係を書いているこの記事の中に、

この心的表象の意味を置くと、また格別な意味を持って私に迫ってくる感じがします。

上記の4つの力こそ、内的自己を支えるための、大きな力として働いてくれるのではないでしょうか。

その1つに「ただちに本質を見抜く力」とありますが、

外的自己に向かってくるある価値観が、

「理にかなっている」、もしくは「内的自己との妥協点が見つかる」ようなものであればよいのですが、

そうでない場合というのが起こった時。

 

たとえば、「デフレなのですが増税します」と政府に言われた時に、

「そうか、政府が言うなら仕方ない」

となるのか、

「いやいや、おかしいでしょう」

と思い、考える人になるのかは、大きな違いです。

 

あくまで一例ではありますが、

そろばん学習は「熟達の過程」で得られる「心的表象」があり、

こうした「熟達の過程」は現在の公教育では経験することのできないものです。

 

「読み書き」ではどうでしょうか。

素読を中心とした「読み書き」においては、私の教室では

『論語』『実語教』などの、いわゆる「修身的」な内容を扱っています。

人としてどうあるべきか。

勉強することはなぜ大切なのか。

などのことは、

「それこそ『外的』なものからくる価値観ではないか」

と思われる方もいらっしゃるでしょう。

私もそういう側面があることは否定しません。

 

しかし、現在の教育制度から「修身的なもの」がなくなった今、

かつて「外的」であった『論語』や『実語教』の学習は、

「内的自己を支えるために有用である」という逆説的状況が生まれていると私は感じます。

 

素読で言えば、万葉集や百人一首をはじめとした和歌や、その他にもたくさんの古典作品を素読します。

そこで生徒が得る物は、「外的」な「価値観」ではありません。

それは、昔の日本人が持っていた「感性」「死生観」「道徳観」であり、

それを古典の原文そのままに体感することです。

そこから生まれるものは、ある生徒が何かを体験したり、季節の移り変わりを感じたりするときの受け止め方における「日本人らしさ」です。

二千年、もしかしたらそれ以上の歴史を持つ言語遺産を、現代の私たちはうまく活用できずにいます。

言語とは、民族の依って立つ処であり、言語を失った民族はもはや消失を待つだけとなります。

「日本人らしさ」の源泉は「日本語」ですが、

それらの表面だけ掬い取って教育した気になっても、

それは生徒の内的自己を育てる底力にはなりません。

彼らの遺伝子に刻まれた「日本人らしさ」を呼び起こす「日本語教育」をすることが、

内的自己を支える土台となると私は考えています。

 

しかし、私がいくら素読教育を行ったとしても、

昔の日本人と比較すれば、得られるのはとても小さな「らしさ」かもしれません。

日々の授業の中で、自分が蟷螂の斧を振るっている感は払拭し難いものがあります。

しかし、こうしたことは理屈ではないと私は思っています。

 

実は私自身が、自分が触れたり読んだりしてきたものに感じた「日本人らしさ」があり、

それと、「世間で起こっていること」「大人たちの振る舞い」との乖離に強い強い違和感を募らせていました。

 

私がなし崩し的に塾の先生になったことも、

酒瓶片手に、引きこもって手書きで素読の教材を作り続けたことも

「こんな世の中で、まじめになんかやってられるか」

という想いがあったのかもしれません。

まさに、外的自己の抑圧に耐え切れず、内的自己に逃避しつつも、

食わなきゃいけないので、ぎりぎり体面を取り繕っていたのが、二十代から三十代ごろの私なのでしょう。

 

そんな私を最後まで支えたのは、

「一人の日本人として」

という矜持でした。

そして、その矜持は、さまざまな古典作品、

近代日本の中で格闘し続けた文学者たちによって支えられました。

 

さて、自分語りはこれくらいにして、素読の持つ、もっと素晴らしい力についてお話いたします。

皆さん、あまり経験していないから実感として腹に落ちないとは思うのですが、素読で得られる大きな財産として

「圧倒的国語力」があります。

 

そろばんを習うと「圧倒的計算力」が得られ

素読をすると「圧倒的国語力」が得られます。

 

これなんですが、むしろ「やらない理由」の方が分からないくらいです。

「圧倒的国語力」の中には、もちろん「読解力」も含まれます。

 

「圧倒的読解力」は、小中高学生ならば誰もが手に入れたいと思うのではないでしょうか。

学力の話だけでは終わりません。

今の世の中は、ぼんやり生きていたらすぐに

隷属や搾取や収奪の対象となってしまいます。

または、詐欺的行為に遭って尚、自分が詐欺的行為の被害者になっていることに無自覚なままという場合もあります。

こうした現実から身を護る(ひいては家族を守る)ためには、絶対に情報弱者であってはならないし、

情報弱者にならないためには、一定のリテラシー(読解力)、分析力、論理的思考力、そして本質を見抜く力を得ていなければなりません。

 

情報弱者にならないための、リテラシー(読解力)、分析力、論理的思考力、そして本質を見抜く力

「学校教育でも、それらを手に入れることは可能か?」

ここは最大の要点になります。

 

とりあえず言っておきましょう「可能である」と。

しかし、それは時と場合によります。

 

それを手に入れようと一生懸命学校に通っても、多くの生徒が受験制度という篩に掛けられてしまいます。

 

また、多くの生徒にとって、学校教育は「外的自己としての抑圧」になることを忘れてはいけません。

それは、「東京大学を頂点とする」ピラミッド型の価値体系の中での「優劣」で、学生達を測っている限り、避けることができません。

 

そういうことだから、

日本の大学という場所が、単なるモラトリアム装置となり、

本当の学問の場として機能しているケースが希少になってしまったのでしょう。

 

さて、「寺子屋形式の読み書きそろばん」は、数値によって優劣を競わない指導を可能にします。

実際、私の教室では生徒の優劣を競う場面は極小です。

生徒達の中では、勝手にライバルを見つけて、対抗心を燃やして自他比較を動機付けとしている者もあります。

が、それも個人のなすがままに任せています。

教室または、教師の側から、競争の場を強制しないことがここでは重要です。

「競争したい者はすればよい」

ただし、それは強制的な、「外的」な圧力として作用させない。

これが、学校教育と私の教室の大きな差です。

 

だから、生徒達は、安心して自分の課題に、自分なりのペースで取り組むことが可能になります。

私の教室で行われている学習が、抑圧的ではない理由の1つです。

 

もう1つ、私の教室での学習が、「外的」な抑圧として作用しにくい理由があります。

それは、「学校で習わないことをやる」ことです。

学校で習っている勉強とは、一見無関係な学習をするため、

生徒は自分自身を

「同学年、同級生の中での位置付け」や

「同じ課題での他者との優劣」について、

気にすることなく課題に集中できるようになります。

「寺子屋形式」の力が、ここで発揮されます。

生徒達が取り組む学習は、学年別・年齢別ではなく、

「無学年・レベルアップ方式」

の中で進めてゆくため、

同じ時期に入塾した生徒でも、

3ヶ月後には、まったく違う組み合わせ、違うレベルの学習に取り組んでいることは珍しくありません。

つまり、生徒同士が、ことさらに自他を比較して、何かの優劣の評価に苛まれるような状況にならないのです。

 

このような形で、「寺子屋形式の読み書きそろばん学習」に取り組んだ生徒は、

外的な抑圧をほとんど受けることなく伸び伸びと学習に取り組み、

知らず知らずのうちに圧倒的な計算力国語力を身につける結果となります。

このおかげで、外的自己における「優劣」のものさしから受ける重圧を跳ね返す力を持つ事ができます。

そして、素読によってインストールされた「日本人らしさ」は、

リテラシーという武器を手に、

外的自己に襲い掛かる不条理な価値観に対しては、

これを対象化し、論理的な分析を行った上で、

自己の言動を律することを可能にすると確信します。

 

さて、浜崎氏の「内的自己と外的自己」の思考モデルを土台として、

読み書きそろばんが、現代の教育にどれだけ救いとなるのか、

そのことを考えてみました。

 

もちろん、今回の記事は、これから続く思索の出発点に過ぎません。

私はこれからも、この問題を言語化し続けるでしょう。

 

最後に、この記事を書く根本を支えた、浜崎先生の参考動画を二本ご紹介いたします。明治以降の日本人の精神の病み具合が、とても分かりやすく語られています。

 

さくらぷりんと
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