お釈迦様が悟りを開くお話が『涅槃経(ねはんきょう)』(仏教の経典)の中にあります。
その中の「雪山偈(せっせんげ)」(経典の一部)と言われるくだりが以下です。
諸行無常〔しょぎょうはむじょうなり〕
是生滅法〔これしょうめつのほうなり〕
生滅滅已〔しょうめつめっしおわりて〕
寂滅為楽〔じゃくめつをらくとなす〕
雪山偈
この「雪山偈」は、平家物語の冒頭部で有名な、「祇園精舎の鐘の声」の声の正体でもあります。
祇園精舎の中に「無常堂」という病僧が住む堂があるのですが、
そこの病僧が死に臨むとき、無常堂の四方の鐘が鳴り、上の雪山偈が聞こえてきて死にゆく者の苦痛をやわらげたと言われています。
実際のインドにある祇園精舎の堂には鐘はなかったそうなので、
これは祇園精舎のさまざまな逸話が中国から日本へ伝わる過程で脚色されたものと思われます。
つまり、イメージです。
さて、本題に入りましょう。
この雪山偈をもう一度書きます。
諸行無常〔しょぎょうはむじょうなり〕
是生滅法〔これしょうめつのほうなり〕
生滅滅已〔しょうめつめっしおわりて〕
寂滅為楽〔じゃくめつをらくとなす〕
雪山偈
意味はだいたい次のようになります。
世の中のさまざまなものは変化し続け、常に一定であるものはない。
命あるものも同様、常に移り変わり、いつかは必ず死を迎える。
生きること死ぬことで生じる煩悩から離れて
迷いのない心静かな境地は楽しいものである
先日、教室で使うために編集していた素読集『令和往来』が完成いたしました。
私のパソコンフォルダの中で散り散りになっていたさまざまな文学作品を厳選し直し、
小学校低学年から中学生までが学習できる素読集となっています。
その一番最初に習うものとして、私は「いろは歌」を選定しました。
いろは歌は、その成立については謎が多いのですが、
上で紹介した涅槃経の雪山偈を元ネタとしているようです。
色は匂へど散りぬるを
我が世誰ぞ常ならむ
有為の奥山今日越えて
浅き夢見じ酔いもせず
花は咲いて匂うがいつか散ってしまう
この世で常なるものなどありはしない
有為転変たる迷いの山を乗り越えて
つまらぬ夢や快楽に酔うことはもうなくなった
雪山偈もいろは歌も、その構成が一致しています。
一行目と二行目では、この世が無常であることを強調します。
三行目では、この世の煩悩から離れること、
そして、四行目では煩悩からの解脱が語られています。
さて、このいろは歌ですが、
日本では寺の修行僧が一生懸命に勉強した末に学んだのではなく、
小さな子供達が手習いの最初に学んだことはご承知の通りです。
仏教思想の根本である涅槃経の雪山偈の意味を取り込んで、
47文字のひらがなを一文字ずつ使って歌にしたというだけでもすごいことですが、
それを全国津々浦々の寺子屋で、小さい子に覚えさせていたというのは、
よく考えたら驚嘆すべきことではないでしょうか。
私は仏教徒ではありません。
しかし、仏教におけるさまざまな考え方は、
人間が幸せな人生を生きるための知恵を示しているとは思います。
無理をしたり、
高望みをしたり、
自分を大きく見せようと見栄を張ったり、
本質を見失って執着したり、
そういうところから人は苦しみや不幸を招き寄せてしまいます。
しかし、雪山偈およびいろは歌に込められている思想は、それとは真逆です。
諸行無常を知り、さまざまな執着を捨てることで人は楽に生きることができるという知恵を示しています。
これは何も、みんな修行僧のようになれということではもちろんありません。
私たちが毎日生活している中に、
「捨てた方がよいもの」は意外と多いのではないかというヒントが込められているのではないでしょうか。
私たちはなぜ学ぶのか、
学んでどうなりたいのかが大切です。
私は先日、ある保護者の方と面談してこう申し上げました。
「勉強して不幸になるくらいなら、勉強せずに幸せになった方がましです」
私は、幸せになるための学びを提供したいと常日頃から考えています。
というわけで、「いろは歌」を素読集の冒頭に収録することにしました。
初級・中級・上級、全89単元、和歌、漢詩、漢文、古典文学、近世文学と、私が書き下ろした説明文を含んでいます。
素読は読解力をはじめとしたさまざまな国語の力を高めます。
これを一人でも多くの生徒が学習して、強靭な国語力の土台としてほしいと願っています。